秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

CHANEL

付き合っていた女の子から、ある日、いわれたことがある。

彼女の弟が登山をするというので、自分が使っていた山登りのリュックを貸してあげ、返してくれたときのことだ。

「においがする。弟がいってたよ」。私は、少し慌てて、「えっ」と聞き返した。何度も山登りに使って、洗濯などしたことがなかったから。

「いい匂いがするっていってたよ。あなたの匂いよね。私、すぐわかった…」。まだ、幼かった私は、彼女のその言葉にドギマギしたのを覚えている。

自分のにおいを意識したのは、その15才のときだった。別に、フレグランスを使っていたわけではない。整髪料は使っていたが、山登りで大汗をかいていたら、そんな匂いはすぐに吹き飛んでしまう。どういう匂いなんだろう…。不思議に思った記憶がある。

人は、自分のにおいに気づけない。においは、ときに、匂いとも書けば、臭いとも書く。大方は、匂いは好感が持てるものだろうが、相手によっては、臭い、つまり、汗臭さも魅力という人もいるだろう。靴下の臭いを嗅ぐのが好きという女性もいるw

だが、強い臭いは別として、大方、普段の自分のにおいというのは、いずれにしても、自分自身では気づかないものだ。

私たちは日々いろいろな人に出会う。持続的なつながりを持つ出会いもあれば、そうではない出会いもあるだろう。深くかかわるものもあれば、一定の距離を保つかかわり方もあるかもしれない。

しかし、その瞬間や出会いの時間の中で、私たちは、互いのにおいを確かめている。臭覚としてのにおいではなく、その人となり、その人がこれまで生きてきたにおい、いま生きている生き方のにおい、あるいは、これから生きていくであろう、人生のにおい…。

一概に決めつけてはいけないのだろうが、私は子どもの頃から、その「におい」に敏感な方だった。だから、よく、「そんなふうに決めつけないで!」と女の子に切れられたw だが、大方、自分が感じた「におい」は、ほぼ、的中してきたように思う。当たっていなければ、切れたりしないw また、それができなければ、監督や演出という仕事はほぼできない。

おそらく、私という者も、そのように「におい」を嗅ぎつけられ、あれこれ斟酌され、継続的につきあってくれる人もいれば、この人ムリ、この人いやとかいう風に、去っていかれてるのだろうと思う。

仮にいい匂いのする人がすべからく、いい人というわけではないだろう。仮に、臭いのある人がすべからく、よくない人というわけでもないだろう。しかし、臭いより、やはり、匂いの方が、自分もだが、周囲も心地よいに決まってる。

国により、民族によって、独特のにおいもある。いくつかの国にいった人はよくわかると思う。食生活や環境によって、においがある。異国の人間にとって、それが匂いではなく、臭いである場合も少なくないかもしれない。

エジプトに始まり、諸外国で香水などフレグランスが発達したのは、民族間の距離が近い分、意識的に臭いを匂いに変えるためだった。平安時代に発達した、香も当時、風呂や着替えのサイクルがいまのように毎日のものではなかったからだ。

だが、いい匂いはまとうことはできるが、人のいままで積み重ねてきた「におい」というのは、どうしても隠せない。ある時期、ごまかせても、どこかで底が割れる。

そのときに、いい匂いの人であるか。いい匂いのする人であろうとしているか。たとえ、残り香に臭いがあったとしても、そうあろうとしてるかどうかが重要なのだ。

忙しくて買いにいけなかった、CHANEL MEN’Sのフレグランスを東映に行ったついでに、CHANEL銀座でやっと手に入れた。私も、まだ修行が足りないので、CHANELの力を借りている…