秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

おこちゃまのボクちゃんとわたちの国

人は居場所を探そうとする。居場所がなくては、人として生きている意味や価値が見出せないからだ。
 
つまり、自分を認めてくれたり、ほめてくれたり、尊敬してくれたり、いいやつだといったり、かわいいといわれたり、そういうものがなくては、いられないからだ。
 
しかし、居場所を探そうとしながら、探し当てた居場所が居心地のいいものではない場合がある。いや、居場所を探そうとしてみつけた場所ほど、居心地がいいとは限らない。
 
それはなぜか。
 
自ら居場所をつくろとしていないからだ。
 
なにかに乗っかって、そこを居場所にしようとしても、自分でつくりあげたものではないのだから、最初のうちは、なんとなく居場所があるだけで、居心地がいいように思えても、いずれ、どこかお尻が痛くなったり、足がしびれたり、もぞもぞしたりと、どこかそぐわない感じがしてくる。
 
だから、すべからく、居場所を探している人というのは、ずっと居場所を探し続ける。

ああでもない、こうでもない、どうもちがう…と、なにかに乗っかっていながら、不満ばかりでいっぱいになってしまうからだ。居場所があることへの感謝も、そうした居場所をつくってくれている周囲へのありがたさも忘れてしまう。
 
自分の居場所をみつけるのなら、二つの選択しかない。
 
自ら苦心、腐心、工夫して、自分で居場所をつくり、それを自分だけの居場所とせず、居場所を探す人の居場所としていくか…つまり、自分の権益や利益、おいしいところばかりを求めず、みなと共有しようとしてくか、あるいは、乗っかったなにかにかかわり続けながら、尻や足が痛くならないように、もぞもぞしないように、自分を人や回りに適合させていくかだ。

大方、そのいずれもできない人が、♪こっちの水は甘いぞ~、あっちの水は苦いぞ~てなことを繰り返し続ける。ま、人は、それほどに孤独で、さびしいということだ。

そして、どこかいまの自分や自分を取り囲むものに、満たされない感情をもっている…ということだろう。それを埋めるために、何かに飛びつきながら、結局、つまらないプライドや意地から、子どもがだだをこねるように、すべてを反故にしてしまう。
 
簡単いえば、耐性もなければ、忍耐力もなく、その欠落したものを補う力は、金や名誉や地位といった即物的で、実益のあるものしかなくなってしまう。そういう人や人たちに、ああ…ここにいると心から楽しいと思える、ここにいるとほっとする…といった居場所はみつからない。
 
おこちゃまのボクちゃんを大人にしてくれるのは、自分がおこちゃまのボクちゃんやわたちを受け入れていくことでトレーニングするしかない。おこちゃまのボクちゃんやわたちだった自分が、おこちゃまのボクちゃんやわたちの世話や面倒をみるうちに、おこちゃまのボクちゃんやわたちではなくなる。
 
人はすべからく、みな、おこちゃまのボクちゃんであり、わたちなのだ。それは年齢には関係ない。そうした自分の限界をいつも超えることに挑み続けることは、これで終わり…ということないのだ。
 
始末に悪いのは、おこちゃまのボクちゃんであり、わたちだという自覚がないことだが、それはいっても始まらない。熱いヤカンにさわれると、熱い…ということは試行錯誤でしか学べない。ああだ、こうだ説明して聞かせるより、やらせて、失敗して、わからせるしかないことの方が実は多い。
 
大人になれない大人、大人になっている気でいる大人…自分が一丁前なのだという、くだらない自信ばかり持った大人のつくる国は、まさに不思議の国。
 
当り前の常識や人が生きる矜持、道理や作法…それはもうごくわずかな人間たちにしか残されていないのかもしれない。それは、ますます、人の居場所そのものがなくなっていくことを意味している。求めながら、自ら捨てる居場所。悲しい国のさびしい大人たちのいる国のお話。