秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

言葉に至る思い

言葉にしてしまうと矮小化されてしまう。言葉にするとかえって正しく理解されない。言葉にすることで、言葉にしないことで伝えられるべきなにかが壊れてしまう…ということがある。

言葉よりしぐさ、言葉より所作、言葉よりふるまい、言葉より行動…といわれるのは、だから、正しいことの方が多い。
 
確かに、ときとして、人への礼儀として、あるいは、人への教育として、言葉を継ぎ、語り伝えなくてはいけないことがある。だが、まず言葉があってそれができるのではなく、言葉として伝える前の何かがきちんと心の中にできていなくては、伝えるべきものも伝わらない。

舞台演出をするとき、よく、「佇まい」を持て…とオレは役者にいう。セリフを吐く前、なにごとか、身体所作によって表現しようとする以前、そこにその役者がいる…というただそれだけのことに、存在感を漂わせよという意味だ。

芝居でも、映画でも、俳優にとって大事なのは、演じる役のその人が、黙ってそこに立ている、座っているだけで、演じているその役としてそこにあることだ。言葉によって、所作によって、俳優は役者足りえるのではない。言葉や所作がないところで、役者足りえるから、俳優という職業を生きることができるのだ。

人の気持や人の思いをすべて理解したような気になる人は、えてして、言葉でそれを理解した気になっている。同時に、自分という人間のあり様も、言葉で整理して理解しようとし、自分とはこういうものだと大方、お門違いの理解の仕方をしている。

言葉という記号の積み重ねや羅列で理解できることなどたかが知れている。感触や触感、空気やそのにおい、その人が発散している言葉にならないなにか…そうした人にまつわる生理をつかみとらないと、人などというものをほんとうに理解できることなどない。

言葉でなにかができるのではなく、その言葉を発する人の思いにある何かが、言葉でなにかができたように思わせているだけなのだ。

昨年は選挙もあり、いろいろな言葉が世間を飛び交った。今年もまた、いろいろな言葉が飛び交うだろう。政治や経済、外交といったお堅い言葉から、仕事や何かの活動の言葉、あるいは、恋や遊びにまつわる言葉も、また行き来する。

記号や羅列の言葉ではなく、互いが確かさを感じられる言葉を少しでも増やせる年であってもらいたい。それには、自分の内面に言葉に至る思いをしっかり育てることだ。