秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

無礼者

よく無礼な奴だといわれる。ただ、私は無知で無礼な人間ではない。ぞんざいで無礼な人間でもない。

私は確信犯の無礼者だ。無知さが生む無礼さも、ぞんざいな無礼者も私は認めない。確信犯には、きちんとした意図とねらいと戦略と戦術と、そして計算がある。それができる人間は、決して、そこいらの無礼者とはわけが違うw

言い換えれば、こういうことだ。

人に限らずだが、知名度やキャリヤや立場、過去の実績や業績といったものは、まったく、意に介さない。じつをいうと、まったく興味がない。

仕方がないので、仕事の中や集まりの場で、便宜的にあたかも、そこに敬意を払っているふるまいはするが、そこに価値を置いてそうしているのではない。そうした方がうまくいく、手間がはぶけるからそうしているだけだ。

ほら。もう、どこからか、生意気な奴、無礼な奴だという声が聞こえてくるw

人は属性に弱い。その人そのものではなく、その人の「いま」「これから」ではなく、ずでに身にまとった属性に基準の多くを置く。属性は、じつは、その人だけの力がつくるものではない。なのに、その人だけでつくられたものではないものに価値を置き、いま目の前にいるその人がどうなのかを基準にしない。

人間関係をつまらなくするのも、人間関係を閉ざすのも、あるいは、物事がダメになっていくのも、実は、この属性に基準の多くを置くことから始まっている。属性に縛られると上下や優劣の基準に置き換えられてしまうからだ。硬直して、自由ではなくなるからだ。

属性にあぐらをかき、全然、人間力のないものも出てくれば、属性だけでなにかの利権や既得権をえる人間だっている。学ばない人間が出てくる。また、属性に引き寄せられて、自分本来のあるべき姿を見失い、いうべきこともいえない、主張すべきことにも口を閉ざしてしまう人間が現れる。

肩書、地位、知名度、学歴、財産、交流関係…。だれかである、だれかを知っている、だれかと縁がある、だれかと仕事をした…。私にいわせれば、ナンボのもんじゃと思えることが、多くの人にはそうではないらしい。

ま、ナンボのもんだったとしよう。だとしても、それでどうして、そこに自分を合わせなくてはいけないのか、そこにいられる自分であることが重要なのか。まったくわからない。

自分にしたいことがあり、やりたいことがあり、目指すことがあり、また、属性だけではつなかっていない多くの他とのつながりもあるはずだ。そうしたものが、仮になかったとしても、「オレはオレ。アンタはアンタだ」で、いいはずだ。また、そうでなければ、自分が自分である理由がない。

楽したいと思う人、要領よくやりたい人、良心的な言い方にすれば、世間を知っている人は、そんなことより、いまが大事でしょ、これからが大事だから、ということになる。確かに、社会的属性に依存することで、いま、そして、これから、おこぼれやアマイ汁はもらえるかもしれない。つまり安定がえられるかもしれない。

だが、それが人として本当の意味で自由だといえるのだろうか。魅力ある存在へと歩める道だろうか。身近な人たちから、本当の尊敬をもらえる存在でありえる道だろうか。あるいは、まったく属性と縁のない、多くの人々から信頼される道だろうか。

なにも敵をつくれといっているのではない。「いま」そして、「これから」の自分が自分であるための自立を生きようとする人でなければ、夢も希望も、それを実現するための自由な発想も育てられないのではないかといっているのだ。

昨年から今年にかけて、長いものには巻かれろの風潮が広がっている。威勢のいい言葉や掛け声、キャッチフレーズがあふれ、現実を生きる人々の生活が置き去りにされていると感じているのは私だけだろうか。

だれが悪い、あれが悪いではなく、それを止めるのは、属性に弱い、自分たちの姿に気づくことではないかという気がする。

オレはオレ。アンタはアンタ。互角で対等の喧嘩をしよう。なんていうから、私は無礼者の汚名の中を生きているw