秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

におい

中学生のとき、図書室の虫だった。虫とはいっても、自然科学の書棚には目もくれず、ひたすら、人文の棚ばかりをあさっていた。その棚にあった本はすべて読みつくした。
 
それは、読書のおもしろさがあったからだけではない。あの図書室のシンとした、本のにおいがたまらくなく好きだったからだ。放課後の少しほの暗い図書室の本のにおいに包まれていると、どうしようもなく幸せな気分だった。
 
2年の後半になると、生徒会の会議のないときは、それがあるとウソをいって、剣道の部活をさぼり、知り合いの図書係にまじって、閲覧返却の受付の席に勝手に座っていた。

高校になって、演劇部に入ると、ステージや舞台装置のベニヤ板や平台、箱足のにおいがたまらなく好きになった。木造の講堂の放つ木のにおいも、照明用の暗幕のしけたにおいも好きなった。いまでも木材のあるところにいくと、舞台がよみがえる。
 
中学からアコーステックバンドをやっていが、ギターを買ってもらえず、あろうことか、ウクレレでごまかされたw 県立高校に受かったら…といわれ(当時、地方では私立高校よりも県立が優先順位が高かった)、やっと買ってもらったアコーステックギターのにおいも好きだった。そのギターは、いまも手元にある。
 
戯曲を書くようになると、今度は、原稿用紙とインクのにおいがたまらなく好きになった。私が戯曲を書くようになった高校生の頃、ワープロなどというものはこの世になかった。

振り返れば、自分のいままでの生活といまの暮らしのおおもとをすべて、それらにおいがつくってくれている。

もちろん、それ以外の心地よくないにおいも同じくらい生活の中にあった。思えば、心地よくないにおいもたくさんあったからこそ、切実に自分の好みとする心地よいにおいも感じられたのではないかと思う。

以前からいい続けていることだが、いま私たちの生活の中から、そうしたにおいが消されていっている。心地よいものだけを集め、心地よいだけの空間が広がっている。
 
だが、心地よいだけの世界になって、それが心地よいと感じる基準はどこに持てるのだろう。心地よくないものがあってこそ、心地よさがある。
 
私は馬が好きだ。だが、中には、厩舎のにおいが嫌いという人もいるだろう。犬猫の好きな人は多いが、そのにおいが嫌いという人もいる。自分の心地よいと思うにおいをすべての人が好きとは限らない。
 
それを平準化して、だれもが不快でなく、心地よい空間というのは、果たして、ほんとうに人にとっていい空間なのだろうか。
 
昨夜、浅草のなじみの割烹で、ある制作会社の方と英語字幕をやる会社の方を紹介された。今期のうちの作品と来年の国際映画祭への出品のことをどこかで覚えてくれていたのだろう。東映の部長が気遣ってくれて、店につくとそういう次第になっていた。
 
初対面にもかかわらず、あれこれつっこみとぼけ、揶揄やいじりをやりながら、まったくやっている仕事の質も方向性も異なりながら、話すうちに、自然とひとつの糸が浮かびあがる。おそらく、好き嫌いも事前の情報も、それゆえの思い込みや決めつけも
なかったからこそ、そのつながる糸が見えたのだと思う。

世代で分けたくはないが、同席した人たちは、みな一応に、心地よいにおい、よくないにおいの中で、自分の好きなにおい、ここでは映画というにおいの中で、成長してきた人たちだ。
 
そう。撮影所のにおい、かつてあった、映画館のにおい…