秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

普通の人たち

普通というのは、やっかいな代物だ。

つつがなく、無難で、目立たず、そつがなく、だれからもどこからも指をさされない…。だから、普通というのは、否定されようがない。それどころか、つつがない毎日を生きているのは立派だとさえいわれる。
 
しかし、どこからも批判されず、否定されないということは、要は、社会の制度やシステム、あるいは組織や集団の決まり事、ルールや慣例、常識といったものに、いろいろあっても、従うということだ。

 
何か問題があって、それを改革したり、変更するのを普通とはいわない。問題がないように思えている普通にイチャモンを付けることは普通ではない。
 
だから、心ではおかしいと思っても、普通であるために、普通の芝居をする。だが、芝居をすることそのものが、おかしいことに従っていることになる。
 
そこでは、創造性も養われなければ、イノベーションも生れない。普通というマシーンの部品になることだ。

いまはおかしな時代だ。普通であることがすばらしいこととされながら…。普通でなければ、人との付き合いの安全な輪の中にいられないと考えながら…。じつは、普通でないことに憧れている。

よくわからない。

つつがなく、無難で、目立たず、そつがなく、だれからもどこからも指をさされない…。そんな立場や人間でいようとしながら、どこかで目立ちたい、衆目を集めたい、認められたいという欲求を持っている。

普通のやっかいさはそれだ。
 
初めから、普通ってそもそもなんだよと考えている人間は、正直に自己表現もすれば、自己主張もする。おかしいことには、おかしいという。そして、かえようとする。
 
だから、よしにつけ、あしきにつけ、目立つし、指をさされる。それが質の高いものかどうかは別にして、創造的なことも生み出すから一層、衆目を集める。
 
ところが、そうしたことをどこかで望みながら、普通でいようとする。普通が一番というふるまいをする。葛藤があっても、それには向き合わない。
 
それでいながら、なにかの拍子に、その殻から抜けてみようかなと、普通ではないことにも手を出してみる。だが、そこで不安になったり、面倒だなと、自信がない思うと、カメが首をひっこめるように、また、普通であろうと装う。

わかりやすいのは普通ではない人間や事柄であって、わかりずらくしているのは、普通でいようとする人間や事柄の方だ。

普通なんてものは、じつはこの世にひとつもない。普通であることにしているだけのことだ。それがどこかでわかっているから、身の安全のために普通にしている。

普通を求めて、私たちの国はバブル後をさまよい続けてきた。それは、いま社会の中心を支えている世代の教育にも影響している。

そして、普通であることの厄介さで、あるときは民主党への政権交代に普通じゃないものを期待し、それが当てにならないと思うとすぐにまた、カメの頭をひっこめて、自公政治に乗り換えた。
 
人も、世の中も、じつは無駄にかき回しているのは、普通の人たちだ