秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

欠如

人の常識や見識、素養や教養というのは、その人の成育環境が大きい。
 
その上に、やっと、学習への姿勢や意欲、学習を進めるための方法論というのが生れる。
 
それは、決して豊かな家庭だからできるというのでもなく、かといって、貧しい家だからできるというのでもない。
 
簡単にいえば、親の愛をきちんと注がれ、地域の大人たちの見守りがあり、同時に、それと反する環境もあるという、ごく普通の当り前と思える日常が育つ場にあるということだ。
 
教育を受ける機会や教育にふれる場が生活の至るところにあるという状況がいい環境だといっていいだろう。
 
さらには、生活空間の広がり、育っている地域の外からの情報や刺激、人にどれだけ出会うかも大きい。

 
視野を広げる機会と出会い、そして、そこから発見や感動、未知と出会うことの驚きを味わうということだ。その鮮烈さが、基本にあった既成の常識や枠組から、さらに人を自由にし、幅と奥行きを育てていく。

物を知る、学ぶということへの貪欲さは、そうした中で生まれ、それが何かの機会に大きく花開く。与えられるのではなく、自ら求めて、試行錯誤をしてこそ、嘘や欺瞞を見抜き、普遍的な価値や真実をみつける道と出会える。

つくりだすという行為は、これを前提としていないと生み出せない。また、つくりだす人もつくれない。

簡単にいえば、やりっぱなし、いいっぱなしではいけないということだ。結果が大事なのではない。終わればいいのではない。試行錯誤の根幹にあるのは、失敗と成功のいずれからも学ぶという姿勢でしかない。失敗の中にじつは宝があり、成功の中に不安要素や危険因子が潜むことがある。

その努力と機会を見失う、あるいは見失わせるものや人というのは、教育や学習ということの意味と意義がわかっていない。また、学習することの形がわかっていない。

中途半端な教育やいい加減な管理教育をする輩が教育の世界にも、生活の中にもいる。私たちのような映画や芝居の制作の場にもいる。
 
それは、みな本当の意味で、人を育てようという熱意と知識がないだからだろう。そして、その枠組みの中にいることで、いい子でいようとする者も、同じように、熱意と知識がない。
 
結局は、いずれの人も、見識と常識、素養と見識の欠如に戻っていく。