秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

空のコップ

コップに入った水がある。そこに半分の水がはいっている。
 
そのコップがとても喉の乾いた人に差し出されたとしよう。ある人は、なんだ、これっぽっちしか入ってないのか…と思う。そして、差し出した人に不満を感じ、そうした表情や視線を向ける。
 
また、他のある人は、こんなに喉のかわいているときに、水をいただけてありがたい…と思い、差し出した人に、温かな笑みを返し、お礼をいう。
 
これは、ご存じの方も多いと思うが、「足るを知る」という仏教の教えを伝えるときに、よく使われる、たとえ話だ。

物のとらえ方、見方ひとつで、いま自分がおかれている状況を満たされていると感じるか、感じないかの差が生まれる。幸せというのは、じつはすでにいただいているもので、気づけないのは自分の心のあり方が問題なのだという教えだ。

ここまではだれでもわかる。そうした心持になれるかどうかは別でも、納得できる。
 
だが、差し出されたコップにまったく水が入っていなかったら、どうだろう。

喉の乾いている人は、冗談なのか…と思うかもしれない。あるいは、いじわるをされていると思うかもしれない。果ては、ふざけるなと怒り出すかもしれない。

だが、もしかしたら、そこには水がなかったのかもしれない。せめて、形ばかりと気持ちを差し出したのかもしれない。あるいは、のどの渇いた自分以上に、そのコップを差し出した人は喉がかわいていて、水を入れてくれとコップを差しだしたのかもしれない。
 
多くの人は、そこまでは、なかなか思いがめぐらない。納得できない。

そのときに、あなたは笑顔で、どうしたの?とやさしく、その人に声がかけられるだろうか。
 
じつは、本当に問われる、幸せのありかというのは、そういうことなのかもしれない…と私は思う。当然、私にはとてもできない。マザー・テレサのような人ならできるかもしれないし、そうありたいとは思うが、どうしても自分の喉の渇きが優先される。
 
たとえば、こうしたことも考えられるのだ。最初のコップに水が半分だったのは、じつは、それがそこの最後の水だったかもしれない。だから、半分しかなかったかもしれない。
 
だが、喉の乾いたあなたは、そうしたことに心及ばず、疑わずに、それを飲んでしまう。私もきっと、自分の喉の渇きの方が先にあって、そこまで心が及ばないだろう。
 
じつは、人が周囲に不満より感謝を先にしたり、足るを知ることは簡単ではないのだ。言葉ではできることが、自分の生活や欲求にかかわってくると途端にそれができなくなる。自分のことは辛抱できなくなる。
 
仮に、あなたが人より裕福で、社会的にも恵まれた立場にあり、かつ、いい人間として回りに認められていたとしても、自分のことより先に、人のことを先にするというのは容易なことではないのだ。できることは、最初のたとえの範囲なのではないだろうか。

いま、いろいろなことが、この美しいたとえのところで終わっている。だれでも、大方納得するであろうところで、落ちがつけられている。それが、人間の本質や社会の現実をみえなくさせているように私は思う。

昨日AKBの総選挙があった。その視聴率がどのくらいになるか関心があった。平均視聴率も瞬間視聴率も、すごいものだ。そこには生活の満たされている人も、そうではない人もいたに違いない。なにかで傷ついて、それを見ることで心を癒された人だっているかもしれない。
 
だが、やはり。こうした少女や若い女性たちを総選挙という競い合いの中で、品評する社会というのは、おかしい。
 
競い合ってセンターをとること、それが芸能界の常識とされているのは、もっとおかしい。NHKを始め、その結果をニュースとして報道する報道の姿もおかしい。

その視聴率がこの社会のおかしさ、愚かさを示している。みんなが美しい逸話やキレイごとの世界の中に、問題を押し込めている…そう考えてしまう私は、やはり、幸せと出会うことのできない凡夫なのだろうか。