それをいっちゃ、おしめぇよ
「それを言っちゃー、おしめぇいよ」。
映画『フーテンの寅』シリーズには必ず使われる決まり文句がある。そのひとつがこれ。
よく使われる下町言葉。じつは、ぼくらの暮らしの中には、それにはふれない、いわないことが賢明だとする文化がある。
人間関係、社会関係をこじらせないための処世術のように思われているし、何事もあからさまにしてしまうと互いが傷つき、対立してると収拾がつかなくなるから、それを防ぐための生活の知恵とも思われている。
良し悪しは別にして、じつは、ぼくらにはふれないこと、いわないこと、見ないことで保たれている関係や立場、つながりって奴が驚くほど多い。
そこで、適当なところで折り合いをつける。折り合いをつけることで、それ以上は何かを突き詰めたり、追求したりしない。
そこで、適当なところで折り合いをつける。折り合いをつけることで、それ以上は何かを突き詰めたり、追求したりしない。
確かに、真実の追求というとかっこいいし、正義のように思えるが、真実をすべて衆目にさらけ出すことが必ずしも人々の幸せにつながるとは言い切れない面はある。そのことで深く傷つく人も悲しむ人、犠牲になる人もいるだろう。
そもそも、真実はひとつではない。ぼくらが真実と思っている多くは、ぼくらがつくる真実に過ぎない。普遍の真理はひとつだとしても、ぼくらは、それにたどり着けない。
だどりつく努力はできたとしても…。
だが、真実や真相を曖昧にする習慣は、結果的には、それで得をする人間やそこに群がる人を増やす。そればかりか、真実や真相を追うことの意味を失わせ、徒労としか思えない、諦めを人々に抱かせる。
結果、人々から真実や真相、もっといえば、理想や真理を追い求めようとする意志や思考力を奪い、発言を失わせ、現状肯定型の人間ばかりを増やしていくことになる。
曖昧のままであることで都合のいい人たちは守られ、都合のいい仕組みが勝手につくられ、それは、いつか制度や社会の決まり事のように習慣化されていく。
都合のいい人たちの都合のいい仕組や制度、社会、組織の決まり事は、これが多くの民の声だとする曖昧さを演出できる。民主主義という名を借りて。多数決は容易にそれを可能とするし、曖昧さを持ち入れば、多数決を意図してつくることも簡単だ。
いま世界で、この国で平然と真実がねじまげられ、歴史の中で積み上げられてきた、曖昧さの危険を排除するために築かれた理想や真理が、「それをいっちゃーおしめぇよ」とばかり、不確かにされ、反故にされ、書き換えられている。
もう一度いおう。民主主義の敵は、ファシズムでも、共産主義でも、国家主義でもない。ぼくら自身が信じようとしてきた民主主義そのものなのだ。
いま世界で、この国で平然と真実がねじまげられ、歴史の中で積み上げられてきた、曖昧さの危険を排除するために築かれた理想や真理が、「それをいっちゃーおしめぇよ」とばかり、不確かにされ、反故にされ、書き換えられている。
もう一度いおう。民主主義の敵は、ファシズムでも、共産主義でも、国家主義でもない。ぼくら自身が信じようとしてきた民主主義そのものなのだ。