秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

大熊への思い

震災からひと月ほどして、いわきから会津、郡山というルートを何度か回った。いまから3年と少しのことなのに、もっと時間が経っているような気がする。
 
大熊町双葉町から避難している方たちの避難施設が会津に点在してあった。ホテル、旅館、市の福祉施設、学校の体育館…。そこに、食料品ではなく、女性向けの化粧品やストッキング、買い物バック、電化製品…。子ども向けには、絵本や童話…生きるためのものではなく、おしゃれや時間を楽しめるものを届けた。
 
救援物資は被災から時間が経過するほどに、求められるものが変わっていく。それを計算に入れてのことだ。
 
物資を配布しながら、いろいろな話を聞かせてもらい、同世代の仲間のいない、男の子の野球の相手をした。そのときの双葉のサポートセンターはいま、いわき市勿来の仮設住宅にある。

避難している方たちだけでなく、受け入れている側の会津の人たちの苦労や気持も聞かせてもらった。
支援にきていた高校生たちにも。

そして、被災し避難した人々とそれを受け入れている人たちの間に、亀裂や隔絶が生まれるだろうと予感した。浜通り会津ではまったく生活意識や習慣が違う。まして、震災から点々と避難場所を移り続け、避難した人は心も荒れ始めていた。
 
それから1年ほどのうちに、多くの人たちは、会津からいわき、郡山、二本松、福島、そして、山形、関東、関西へと散らばっていった。

私が予想していたとおりに、それぞれの受け入れ地でうまくいっているケースもあるが、前にもふれたように、住民税の問題を含めて、いろいろな齟齬や対立もある。
 
その中で、一部会津に残った、大熊町の人たちが、そうした地域性の違いや気候風土の違い、思いの違いを越えて、会津に根付こうとしている。また、会津の人たちも、その根付こうとしている大熊の人たちを地域の人間として受けいれてきている。
 
今日、応援する会で、MOVEの活動に協力をいただいているOさん、Iさんと、Oさんが情報を提供してくれた、テディ・ベアの展示会にいってきた。
 
会津で、會空(あいくー)というテディ・ベアのブランドを立ち上げた、大熊町のKさんに会うためだ。地元会津の伝統工芸、会津木綿を使い、くまの人形をつくっている。これが、震災支援の海外でも話題になり、国内でも、販促活動のひとつとして採用されるようになってきた。

実際、なんともいえない会津木綿の味わいとつくり手の思いが重なって、魅力ある工芸商品に仕上がっているのだ。
 
その制作に至る経緯やいまの思いなどを聞かせてもらった。私が福島各所を回っていて、耳にし、目にし、知っていることと同じ思い、同じ実状のとらえ方だった。

そして、しっかり会津に根付こうとしている高齢のご両親と会津の地域のみなさんの心地よいふれあいの姿が目に浮かんだ。
 
私は、話を聞きながら、いま私が、そして、MOVEが歩み出そうとしている新しい取り組みの方向が決して間違っていないと確信させていただけた。
 
会津木綿の織り元とつながり、地域の人とつながっていったのは、伝統工芸の文化の共有があったからだ。共に手を動かし、そこに、時間をもてあましていた大熊の人たちがかかわる。それが、ひとつの楽しみ、生きがいになる。工芸を通して、地域との会話が生まれる…

Kさんのお父さんは、大熊でやっていたように、農業も始めた。それに地元の農家や大熊の人たちがまた加わる…そこに、距離や生活文化を越えたつながりが生まれる。
 
手を動かし、身体を使い、そして言葉をかわし、齟齬や行き違いを越えていく…。

地域間連携というとなにか大仰なことと思うかもしれない。だが、私は、この会津木綿という失われつつある地元の文化を橋渡しにして、会津と大熊の人がつながっている姿こそ、それではないかと思うのだ。

だからこそ、その互いのいつくしみと尊敬が、あいくーというテディベアの姿に集約され、いい歳をした男性の私でも、なんのてらいもなく、手元に置いておきたいと思えるのだ。

驚いたことに、いみじくも、いわき市で先進的なトマト栽培の取り組みをしてるTランドのMさんと大熊で小中と同級生だったというw

Kさんのつくるクマは、立ち姿でも飾れる。テディ・ベアで立てるものはない。立つということにこだわったのは、原発事故にも負けず、ふるさとに帰還できなくても、それを乗り越えて、自立して歩んでいく…その大熊の人間の矜持を示したかったという。

Mさんが、私と二人だけのとき、涙ながら語ってくれた大熊への思いが、そのとき、よみがえっていた。