秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

具体的ないま

たとえば、映画の監督や舞台の演出をやる場合…

オレが演劇を始めた15歳の頃、脚本分析だの、演出意図などといった台本や演技プランについて、丁々発止で意見を言い合い、どういう芝居で「なければならい」のか。どういう演出で「あるべきなのか」といったことを言葉を使い、前頭葉を駆使して、先輩たちがやっていた。
 
しかし、それは青い高校生だったからではなく、大学演劇でも、プロの劇団でも、著名、無名に限らず新劇といわれるところではどこでもやっていたことだった。ま、いわゆる演劇や映画のトレンドだったのだ。
 
オレは、15歳の頃からそれがアホらしくてしようがなかった。セリフの一行一句に理屈と理由を並べ、あるいは戯曲や脚本に描かれている世界を頭で理解しようとする。そんなやり方で、いい芝居がつくれるわけがない。「なければならない」「あらねばならない」は、実は、創造や表現というものから、一番遠い。芝居というのは人の生理だ。なぜなら、舞台にせよ、映像にせよ、それを演じるのは生身の人間だからだ。
 
役者があれこれ理屈を学んだところで、いい芝居などやれはしない。それよりも、どう本やセリフに自分を共鳴させ、振動させ、身体を通じて、それをどう表象するかだけに腐心すればいい。理屈や小賢しい知恵があると、それを素直にやる…ということができなくなる。
 
演出もあらかじめ文章と向き合って形づくられるのではない。そんなものは、役者という身体を前にしたら、劇場という空間や映像空間を前にしたら、簡単に吹き飛んでしまう。すべては、身体の生理と場、空間、そして時間にゆだねなければ、いい芝居は発現されない…と確信していたから、アホな議論ばかりやっている演劇や映像のつくり方は納得できなかった。

人は、事前に何事かを文章や形として理解したがる。それによって、安心しようとする。だが、文章や形にして理解できることなど、現実に何事かを表象していく過程の中では、何の意味もなさない。形作る基本にあるのは、人でしかない。肉弾戦でしかない。体を自ら動かし、人と交わり、いくつものやりとりをやり、時には、ぶつかり、時には、妥協点を探りながら、表象へ向かう狭いトンネルを抜けていくしかない。
 
イメージの共有は大事だ。そのための議論や意見の交換は必要だろう。しかし、監督がそうであるように、舞台演出家がそうであるように、そこに見えている世界をすべての人が完全に共有することなど、できはしない。監督や演出のイメージを共有するためには、創造の抽斗が自分にもなくてはならず、かつ、現場で、何がしかの役割を担い、イメージを理解しようと努力し、学び、こうではないかとイメージの提案を繰り返しながら、紡ぎあげていくものだ。
 
人は、しかし、その完成形まで観たいと思う。だが、それはムリ。それができるなら、だれもが監督になれ、舞台演出家になれる。まして、ひとつの表現は、計算された設計図の通りにはいかない。なぜなら、裏方も表方も、そして、それに何がしかの対価を払うのも、すべては、人だからだ。
 
ある人に見えているものが、ある人には見えない。そのことを議論しても意味はない。まずは、形にするために、具体的ないまを、生理として生きることだ。