秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

自分の物差し

人の品性や品格というのは、一朝一夕では磨かれない。おおもとにある素養の質というものも重要で、幼少年期の親の教育が一番大きい。

豊かな家に育つとか、学歴や社会的な地位のある親に育てられればいいのではなく、世間を見る眼、人とつながる作法、人を知る謙虚さといったものを教えられれなければ、どのような肩書や資産があっても、子どもに素養を与えることなどできはしない。

世の中には、自分には教養がある、自分には素養が備えっており、人に認められ、愛されるものだ…と勘違いしている人がいる。世間や人とつながる流儀が、自分を中心に動いて始まっているから、世間や人に自分がどう映っているかに気づけない。

そうなると、自分への執着ばかりが強く、人が自分を受け入れてくれないと、相手のせいにし、自分を振り返れない。振りかえれないから、自分を中心において、周囲を眺めているだけの現実に気づけない。
 
すべてに、自分の物差しが基準になっているからだ。

素養のある人ならば、いろいろな思うようにいかないこと、人に受け入れられない現実、人との行き違いといったものがあると、そこから、自分を振り返り、自分の物差しが決して、人と同じものではないということに気づける。
 
その積み重ねによって、人は生まれながらにではなく、教養や素養を身につけていけるのだ。つまりは、反省と内省。
 
近頃では、お詫びや謝罪の言葉が実に軽くなった。すみませんの一言に込められる心の重さがなくなった。自分の失敗やシクジリがそれほど大きなものと気づけなくなっている…ということもある。確かに、あまりに過大に自責ばかりされても困る。へこたればかりいられては、物事の先を目指せない。
 
だが、恥は知らなければいけない。どのような自分の思いはあるにせよ。何事かで人や周囲に迷惑をかけたということへの恥がなければ、反省はない。そして、それを素直にできれば、次のために、自分はどうあらねばならないのかが見える。
 
次のためにどうあるべきなのか…それが、それまで自分の物差しだけでみていた世界を、世界の物差しで考える自分に変えてくれるのだ。

人はだれしも十全ではない。だからこそ、自分の物差しで物事や人を図る自分の愚かさや無知さに謙虚でなくてはいけない。
 
人は変わることができる。いくらでもよい方向へ自分を磨くこともできる。だが、その当り前のことをやろうとする素直さと実直さがなければ、いつまでも自分の物差しだけに執着した狭隘な人間で終わってしまう。

世の中も、人も、自分が思うほど、自分の手の中にはない。