秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

省かせてもらう

決めつけと思い込み。その大半は、学習の浅さと少なさが生み出す。

そして、その学習の浅さと少なさは、見識の狭さ、状況理解の薄さ、他者の気持ちへの配慮の不足や気遣いの欠落を生み出す。

小さな親切、余計なお世話は、大方、そうしたところから生まれるし、手前勝手な正義感というのも、そこに端を発している。

大した物差しでもないのに、自分の物差しですべてが理解できていると思っている無学な人や無知な人たちがそれをやる。

人には人それぞれの物差しがあり、学習の深度の違いもあれば、質量の差もある。

それを摺合せてみたり、凌ぎを削ってみたりしたところで、あまり意味はない。時間の浪費だ。
 
未熟な物差しで、どのような凌ぎ合いをしようとしても、なにも生れはしない。まずは、未熟な自分の学習の深度や質量を疑うことだ。浅さと軽さを知ることだ。

と感じさせる人たちがじつに多い。大方は、偏狭な人や狭窄した視野しかない人。
へートスピーチを平気でやる人。普遍的な価値に届く学習をしていない人。

学習というのは、試行錯誤の繰り返しによってしか深まらない。

どうもいまの世の中、この仮説を立て、多様な世界にふれ、それを言葉や行動で検証し、自分の無知や失敗に気づき、そこから新たな学びをえて、さらに言葉や行動で検証する…ということをやっていない人が増えているのかもしれない。

あるいは、仮設を立てるそのときから、それを仮設と考えず、まず妥当性ありき、答えありきで始めている人が多い。
 
若い人なら、それも無理はないといえるだろうが、年齢も30代以上になれば、仮設から誤ったままの偏狭な自分の学習姿勢に気づかないというのは、愚かしいというしかない。

多様性と複合性、総合性といった視点がなければ、どのような学習でもそこから普遍的な価値に辿りつくことはできない。
 
たとえば、英文学のヘンリー・ジェームスの超難解で長文のセンテンスと格闘するためには、英語力の問題以上に、数学の能力が必要とされる。ジョイスベケットのような特殊といってもいい英文表現の作品を読み解こうとすると、記号学や音楽の能力が求められる。
 
シェークスピアを理解しようとすれば、当然ながら、近代英語×現代英語翻訳辞書、シェークスピアグロッサリーが必要だし、聖書の理解がないと多くの意味やたとえが理解できない。ソネットの韻を理解する音感もいる。

ただ普通の辞書を引き、英文法をつかい、つたない日本語に訳せば、理解できるのではないのだ。

その過程において、あっちにぶつかり、こっちにぶつかり、ときに迷路に迷い込みながら、自分の無知をしり、ある訳文やある意味にたどり着く。
 
そのとき、その人の脳は、最初にそれらの迷路に直面したとき、多様性と複合性、総合性の必要をしる。そこからみえる、これまで知らなかった新しく、そして広大な知識の世界、人類が苦難と研鑽の中で見出そうし続けいてる普遍的な願いを知るのだ。

それをしようとしない人には、何を語っても意味はない。私もいい歳なので、できるだけ、そうした愚かで無駄な時間は省かせてもらう。