秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

それはそれで困ったものだ

いい仲になると女性にぞんざいになる男がいる。ぞんざいなまま、相手が望んでも結婚という次のステップにいかない男性もいる。また逆に、結婚した途端、豹変する女というのもいるし、子どもが生まれてからみるみる主権を主張するという女性もいる。
 
あるいは、付き合っている男性が、依存性が強く、甘え上手で、生活にも金銭にも、だらしないのだが、なかなか断ち切れないという女性もいるし、逆に、女性の金銭感覚がルーズだったり、異性関係がルーズなのに、ビシッと断ちきれないという男性もいる。
 
さらには、相手にその気がないのに、その気があるはずだ、その気にさせられるはずだと幻想を抱き、ストーカーまがいになる、身勝手な男性もいれば、交際してもいないのに、交際している気になって男性を追いかけるストーカー女子もいる。

要は総じて、男女ともに、恋愛下手であり、まともな恋愛経験がない場合が多い。不器用なら、まだ、かわいいのだが、どうやら不器用さというのとは違っていて、自己愛ばかりが強いせいでそうなっている。
 
男女に限らずだが、いま、だれもがだれかに認められたい、評価されたい、愛されたい…とばかり願っている。されたい…ばかりで、してあげたい…は、実は希薄。
 
好きな人のためにしてあげたい…という形式はとっていても、どこかで、これだけしてあげれば、何かが返ってきて当然とどこかで思っている。こんなに大変なのに、私はしてあげている…なのに!とくる。つまり、どこかになにがしかの代償を求めている。
 
簡単だ。これだけしたのだから、私の、オレの、思う通りになってくれ、してくれ…つまり、されたいだけのために、しているだけなのだ。それはセックスのためかもしれないし、金銭や何かの利益のためかもしれない。あるいは自分の孤独を埋めるためかもしれないし、世間に彼氏、彼女がいると表明して安心したいためかもしれない。つまり、そこに相手がいない。この人でなければならない…という必然が薄い。

それでは、まともな恋愛も、まともな結婚もおぼつかない。が、しかし。なにをして、まともなのか…と問われれば、そこに正解はない。世間の常識や見識といったものから、違っていたとしても、そのドロドロしたところが男女というものだ。
 
だが…。そのドロドロがあっても、それを越えて、ピュアなものにたどり着ける道もある。恋愛は人を育てる…といった故人がいたが、確かに、自分の中にある、あきれるほどの執着や未練、女々しさや弱さ、邪さ、狡さといったものを教えてくれるのも恋愛。だからこそ、それを越える力も与えてくれるものだ。
 
だが、そうしたものに昇華してくれるのは、自分が自分が…といった執着や打算や駆け引き、自分の損得で恋愛や結婚を考えていた心を脱皮できたときだ。
 
結果的にどのような相手だったとしても、選んだのは自分。その相手の幸せを心から願える…その境地にたどりつけるものだけが、すべてを糧に変えられる。それができなから、人は、また同じ間違いを繰り返す。
 
恋や恋愛といったものから遠く身を置いていると、それがよく見える。創作に携わる人間としては、得でもあるし、また、それはそれで、困ったものかもしれないw