秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

巫女の肖像

胎児性水俣病患者、上村智子さんの写真を初めて目にしたとき、言葉をなくした。高校生ときだ。

(胎児のときに母体が取り込んだ有機水銀が母体を通して胎児に堆積し、有機水銀を摂取した母体ではなく、胎児に重篤な水銀中毒症状が発症する。これを胎児性水俣病という。)

 

あの黒バックに浮かぶ彼女の姿が、日本人ではなく、アメリカ人の報道カメラマンによって撮影されたものだということを当時、ぼくは知らなかった。

 

胎児性水俣病患者は、当初、症状に類似性があったために、チッソ側の情報操作で、脳性麻痺(小児麻痺)と診断され、チッソ工場から排出される有機水銀との関係は否定されていた。彼女だけでなく、発症は隠蔽され、症状によって、リュウマチや神経痛などあらゆる類似する病名に置き換えられていた。

 

熊本県内はもとより、隣接する鹿児島、佐賀、福岡などで、熊本県水俣市での俗に「水俣病」については、以前から知られていながら、その正確な症状とチッソ水俣工場の不知火湾への有機水銀大量放出との因果関係まで明確にされていなかったのだ。

 

原因不明、症状の悲惨さ、悲劇性から、多くの人々は、目を背け、政治も行政も雇用を生み、地域の活力につながるチッソ水俣工場(新潟チッソしかり)を加害者とする被害者組織に冷徹だった。

 

病名の統一性のなさ、発症件数の多さは、逆に、差別を生む元凶となった。福岡にいたぼくは、よく覚えている。水俣特有の遺伝病という噂が広がった。しかも、ふれると感染する…。かつてのハンセン病と同じ扱われ方だった。

 

中学、高校の頃、大人たちが、カネミ油症公害事件と同じく、水俣のことをまるで口にしてはいけない悪所のように噂する風景を何度も見聞きした。

「汚染した魚を食いよう奴が悪かとたい」「あんな病気になるのは、貧乏で腐った魚も食べてしまうけんたい」「あげなふうになるとは、遺伝たい。水俣の人の因縁が悪かけんたい」「水俣なんか行くとこやなか」「金のほしかけん、関係ないもんまで裁判しようろうが」といった、無知からくる偏見と差別、被害者側を批難する声が大勢を占めていた。

1973年、熊本地裁で第一次水俣訴訟が勝利した。あの日のことは鮮烈にぼくの記憶に残っている。このブログでも何度か紹介している。その報道を見ながら、父と議論になり、ぼくは父からボコボコに殴られたからだ。

ぼくは言った。「この人たちの犠牲の上にぼくらの生活は成り立っている。もしかしら、博多湾で同じことが起きていたかもしれないだろ! ぼくらの代わりに、この人たちが犠牲になってるんじゃないか!」

父は言った。「水俣の人間に世話になった覚えも、犠牲にした覚えもない!」

ぼくは畳みかけるように、きつく言い返した。「そういう言い方は、非人間的だ!」

すぐに、父の鉄拳が飛んで来た。やり返すこともできたはずだが、ぼくは父を殴り返すことができなかった。尊敬する父だったからだ。

父が激昂したのは別の理由があったからだと後で知り、自分の思慮の足りなさを反省したが、以来、ぼくと父には、親子の情愛とは別に、長い間、埋め切れない見えない溝が遺されたと思う。

 

晩年、父と男の終末について明るく語り合い、迷惑かけ通しの自分の人生を詫びることもできたが、父に最後まで心配させた、ぼくの中の見えない溝は父が亡くなってからも引きずっている。

映画『MINAMATA』の公開予告を知って、すぐに観ようと決めたのは、きっといい作品に違いないという確信と、あのときの父とぼくの間に生まれた溝が何だったのか、確かめるためだった。

水俣は、その後も政府の中途半端な対策で被害団体の人々は翻弄され続けている。とりわけ、この20年ほどの間に、社会の暗部として現前としてある公害問題が闇に葬られ、本来糺すべき、政治や行政、企業の問題を問うことをしなくなった。福島第一原発事故もそのひとつだ。

いま世界的に問題になっている海洋汚染、マイクロプラスチックの問題も、そもそも、チッソなどビニールやプラスチックの原材料を提供する企業があってのことだ。

父たち世代は、戦中戦後の貧しさを知るがゆえに、高度成長をよしとし、明日食べるものに困らない生活をつくり、守ることのために全力で必死に働いた。それは自分のためでもあるが、それ以上に家族、子どもたちのためだ。そうすれば社会はよくなると信じたからだ。だが、そのために見ないようにしていたこと、見ていても顔を背けようとしていたことがあった。

おそらく、クラッシック好きで、洋画好きだった父が、映画『MINAMATA』を見れば、いい作品だというだろう。だが、「よく映画にしたが、日本人ではこの映画はつくれんかったばい」というに違いない。

こうした映画がつくれない国、国民の限界を父はよく知っていた。子どもの頃からの父との折々の会話を思い出すと、警察官であった父だから見えていた、この国、社会のしくみの現実への冷静な視点がいつもあったからだ。

そうあってはならない。だが、このしくみは変わらないという諦観だった。権力機構の中にいる人間だったからこそ、そのパラドックスは痛感していたのだと思う。

だが、ぼくが高校生のとき、衝撃を受けた上村智子さんの写真。その力。ぼくは、それはあるべき社会や世界、人々のあり様への透明なメッセージだったと思う。

確かに、国、社会のしくみも、日本人が底流に持つ偏狭さや画一性からくる排除の暴力は土俗的なものと結びつき、DNAにまで組み込まれた、この国の、人の 悲しい現実かもしれない。枠の中からはみだし、声をあげれば、その内容よりも、やっかいものとしてのスティグマに晒されるだろう。

 

だが、もういい加減、そのパラドックスを容認する世界から、あるべき未来を示す透明なメッセージに、子どものようだと笑われても答えてみてもいいのではないだろうか。

 

上村さんの写真は、神聖なるものへの橋渡しをする巫女のように、ぼくらに手を伸ばしている。それを受け取るか受け取らないかは、あなたの自由だけれど、その方がもっと生きやすい社会、時代だと思うのは、ぼくだけなのだろうか。

この溝をそのままにしないためには、ぼくらが苦しくともその地平を拓くしか道はないのだ。ジョニー・デップがこの映画をつくったのも、そのためだったとぼくは思う。そして、ぼくが父と埋められなかった溝もそこにあり、そうすることでしか埋められないものだったのだ。

ぼくは深い溝を挟んでしか、父と会い続けることができない。父が諦めていたことを生きること、それがぼくが父からもらった、ぼくの生きる道なのだ。

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映画MINAMATAパンフ