秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

情に竿させば 流される

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三鷹にある劇場 芸能とついているところが たぶん 味噌


オレの作品に 何度か出演し ためにメシをし 秀嶋組のスタッフや Redの連中とも親しい 

女優の内田悠子(イニシャルにしていないのは 奴の名を 知らしめてやろうという親心)が 

この間の試写会で いやがるオレに 無理くり渡した チラシ 

タイトルは『宿命(さだめ)』 どうせ 退屈な芝居だから いかないっつうの

といっても 体育会系の奴は 渡す その押しが もっと芝居に出れば いいものを

と いいながら しょうがねぇなと 花を贈り 奴にわからないように 行くといわず 

見に行く


前回の 奴のダンス公演のときも 花だけ贈り 知らん顔していて わからないように

見にいったのだが どうしてだろう 最近の劇団や公演は みんなそうなのか?

当日券を買うと 必ず だれの関係者ですか? と聞いてくる

その度に オレは匿名の客としていっているのに と名前を言うのをためらう

だが なんか それが当然のような顔している 受付のお嬢さんの笑顔を見ると

逆らう術もなく 仕方なく 名前を言う

前回は 小さい会場だったせいなのか オレいいッスから と断わっているのに

どうぞどうぞと 待合の席を勧められ いやあ やばいなと 思っていたら カントクですよね

と声をかけられ それが奴のおふくろさんだった そうなるとこちらもあれこれ気を遣うし

相手にも気を遣わせてしまう だから 匿名でいこうとしているのだが…


今回も 仕方なく名前はいったが どうやら 知り合いらしき人間もいない

と安心していたら オレの作品に出演してくれた 往年のアイドルで オレたちの若い頃は

テレビドラマによく出演していた 名女優のMさんとばったり!


いまは 地味目の役で 出演も少ないが 本当にうまいと思う女優さんのひとりだ

オレの台本を読んで感動してくれたらしく 社会映画だからと 破格のギャラでも 出演したいと 

いってくれた 女優さん

実は オレがいま再演しようとしている芝居にも まだ お話していないが 出てもらいたいと

思っている ま そんな話はしなかったが 息子さんが この芝居が初舞台というので

見に来られたらしい で そこそこに挨拶して 再び 匿名に紛れる Mさんもそうしたことに

なれているから 互いに いい感じのところで 匿名になる


で 芝居が終わって とっとと姿を消そうと いの一番に 会場を出ようとしたら

舞台挨拶を終えて お客さんの見送りに出て来た 内田とばったり!

また バレた 出てくるのが 早すぎるべ

で あまり声をかけず とっと退散 

芝居中 役者は忙しい それに舞台に集中させたい だから なるべく匿名でと 思っているのだ



芝居の方は ま 奴は オレの言うことは もうわかっていると思うが

いかがなものか… 

芸能と名の付く劇場には ふさわしい芝居なのだろうが 

時代物やってるのに なぜ 鬘(かつら)使ってない! 

ま 予算の都合なのだろうが 衣裳はばっちり 大衆演劇風なのに

そこに 鬘ないの おかしいべ あそまで 衣裳に金かけたら 鬘は絶対必要 

芝居は 明治維新の話ではなく こてこて時代劇 ドサ回りの大衆演劇だって 安手の鬘を使う 

もし予算がなかったのなら ヘアメイクのプロをつけて 髷(まげ)だけでも付けられる

逆に 地毛に髷だけの方が リアリティがあるのだ たぶん その知識がなかったのだろうが


天草四郎の時代の話で 東映の『柳生一族の陰謀』と 春日局を軸にしたフジテレビの『大奥』と 

遠藤周作の 隠れキリシタンを描いた『沈黙』と 角川映画の『魔界転生』を 

ごちゃまぜにしたような芝居

だから やたら暗転が多い 映像的に暗転を使って 芝居が書かれている 

舞台の生理に合わせた 計算された暗転ではなく 単に 映画風に 暗転を使っているだけ

これでは 芝居にならない 大衆演劇だからだ それでいいのだ なのだが 

だったら もっと 大衆演劇らしく見せる見せ方もあっただろうに

つまり 舞台っぽくないのだ


その中で 理不尽な権力に 愚弄されるキリシタン 農民の苦しみ そこに立ち上がる天草四郎

それらを 裏切りを働いた絵師の回想 ざんげの中で それぞれの宿命を 懸命に生きることでしか 生

きた証はえられない 罪は贖えるという キリスト教的 慈悲が入りで こてこて人情劇 


「情に竿させば 流される」 明治の文豪 夏目漱石の言葉

最近 形式は違うが つまらない舞台の多くに この傾向が強い かつての音楽座なんかも

そうだったが なんか ゆるい人情に訴えて 人生訓をいいたがる

人間の弱さやいかがわしさも 入れてはいるのだが そこがストイックではない

最後の落としどころが甘いから そうなるのだ 芝居に厳しさがない キレがない 結果 人間が

描かれていない


しかし そんな芝居に 多数の役者が出演し その知り合いや親族 関係者らしき客で

客席はほぼ満席 いまは 芝居はそういうものなのか 途中 溜息が 幾度も漏れた

それに比べたら この間 Norikoに連れていかれた 芝居の方が はるかにおもしろかった


が しかし


前々から 内田には 時代劇をやれと 実は オレはいってきた 東映との関係も 

そういうつながりになればと 実は 思っているのだが

そのオレの眼は まちがっていなかった と今回 確信した

今回の役は まだ その鍛錬になるほどの 芝居ではなかったが 奴が時代劇に向く

役者としての資質があることを 芝居はともかく 証明してくれたのは うれしい

内田を 初めて使ったときから こいつの不器用さは 時代劇向きと踏んでいたのだ


人は 確かに 情には弱い しかし 同時に情は もろく そして こわい

中曽根の 小泉の 自公独裁の 人気政治に振りまわされるのも 情だし 

かけた情けが 裏切られれば あっという間に 人は人を裏切る 

情に弱い人間は 情におぼれ 人間の本質を学べない 慈悲と情は違うのだ 


人と 社会と 世界との つながりを情だけで見ようとする 理解しようとする

人間に オレが 手厳しいのは そのためだ

そこには 曖昧さと いい加減さと 馴れ合いが 同居しているから

だから 漱石は 情に竿させば 流される と説いた


理屈や 正義だけでは 息苦しい だから 情も必要なのだが そこに 情というもののこわさを

知る心 眼がなくては すべてが 情に押し流され 物事の本質が 見極められなくなる

これは 親子関係でも 教師と生徒の関係でも 職場の人間関係でも 男女の恋でも 同じ


「あの素晴らしい」でも述べているが オレの好きな時代劇に 市川雷蔵主演作品がある

雷蔵のすごさ 凄みは 時代劇という情の枠組みを 壊したことだ 壊しながら

手の切れるような冷たさの中にもある 情を 雷蔵は 見事に演じていたからだ

テレビ時代劇を変えたといわれる 市川昆の『木枯らし紋次郎』も 同じ

そうした 作品に登場した女優も また それまでの時代劇を超えていた 

オレに 強烈で 新鮮な驚きを与えたのは 吉田日出子だった 

その後輩が 余貴美子

内田よ オレのいわんとしていることは わかるな

だらか 情に竿ささず かしこい 女優になれ なる努力と 時間を生きよ