秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

ありがとう

今日はおふくろの7回忌だった。
 
福岡の姉から前の日曜日に命日の法要をやると聞いていたが、この間のその日、私はいわき日帰りの取材だった。鹿児島でも12月にお世話になった義父の7回忌があり、結局それに合わせることにした。

しかし、福島応援学習バスツアーや年末の支援イベントへの協力、さらには、今期東映からリリースするうちの自主作品の制作時期とぶつかり、そちらも怪しい雲行きになっている。

7年前の今日は未明に姉から電話をもらい、母が亡くなったと連絡をもらった。朝いちばんの飛行機に乗り、亡くなった母と対面した。笑っているような顔だった。
 
その一週間前。母が倒れたと聞いて福岡へ行き、私が生まれた赤坂門の先にある病院へ見舞いにいった。
 
丁度、東映の仕事で福岡県のコンペ作品にかかっていた。シナリオを脱稿したばかりで、東映社内でも評判がよく、通るだろうといわれていた。コンペに通れば、福岡ロケで10日くらいはいる…そう元気づけた。だが、その前に、他界した。
 
わずか一日しかいなく、東京に戻る前に、別れ際、手を握ると驚くほど、強い力で握り返してきた。私も母も、これが今生の別れになるだろうと予感していた。
 
あのときの握り返してきたおふくろの手の強さと温かさはいまもはっきり覚えている。

なにひとつ親孝行らしいことはできなかった。ささやかに上京した折、仕事でいっていた蓼科のホテルに連れて行くと、もう思い残すことはないといつもの口癖のようにいった。そのあと、二人で初めて東京タワーにいったときもそういっていた。
 
母と二人でどこかへいったのは、それが最後になった。

孫が大学を卒業するまでは生きていたいといっていたが、結局、大学に合格する前に逝ってしまった。
 
7回忌の法要にもいけなく、すまないと思う。
 
母は、私がいま福島のことに傾注している姿をみて、生活を犠牲にしてまでやって…と心配事をきっというと思う。あまり金にもならない社会映画ばかりつくってと、きっという。
 
しかし、そういいながら、きっとどこかでそれをやり続ける息子を誇らしく思ってくれるとも思っている。
 
人様のために…そればかりで生きてきた人だった。同時に、なにかに夢中になると後先考えず、つっぱしる私の危うさもよく知っていた。おふくろがそう教えたんじゃないか。もちろん、おふくろだけじゃない。おやじとおふくろがそれを教えたんだ。
 
私はきっと心配事を繰り返す母に、生きていても、亡くなっていても同じことをいう。

亡くなる一週間前も、亡くなったときも、私はおふくろの大好きだったプリンを買っていった。今日はプリンは買っていない。次におふくろのいる福岡に帰るときに持っていこうと思っている。
 
代わりに仲間がもってきてくれた、会津の有名な柿を供えた。
 
かあさん。これが福島の味さ。これだけじゃない。たくさんの福島のいいものと人にオレは出会ってるよ。ありがとう。