秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

母の逝去

既にご存知の方も多いかと思いますが、11月19日午前01時05分に母が他界しました。

先月末に19年前に治療したクモ膜下出血が再発し、入院しておりましたが、出血箇所とは別に脳幹近くに

亀裂寸前の大きな動脈瘤があることがわかり、これが切れることは時間の問題という状態でした。手術し

ても危険な状態で、78歳という高齢でもあり、私の意見で手術はせず、小康状態を保てるものであれば、

このまま普段の生活に戻してはと家族で合意しておりましたが、本人が手術を強く希望したこともあり、

今月29日に術中の死も覚悟の上で施術を受けることにしておりました。いずれにしても生還の確率は極め

て低い状態で、私の仕事がひと段落した一週間前に入院中の母を見舞いました。

高齢ですので、あちこちに病気は抱えておりましたが、クモ膜下以外に命にかかわるような疾患はなく、

まだらボケは別にして、元気な状態でした。

とりわけ、何を話したというわけではありませんが、母の大好物だったプリンを土産物に持っていき、

「一個だけなら」という看護師さんの好意で、母にプリンを食べさせることができました。血圧が上がら

ないように注意されていたので、母も遠慮があったのでしょうが、私がちょっと席をはずした隙に、ぺロ

リとプリンを食べてしまっています。母らしいなと思わず笑いました。

出血が止まっているという状態にややほっとし、次の日東京に戻りましたが、別れ際、母も私も、もしか

したら、これが最後になるかと思い、手を握りました。母の手は暖かく、そして握り返す力は強く。言葉

ではない何かを伝えようとするように語っていました。これが生きている母との最後の別れになる。私に

も母にも、はっきりとした予感があったような気がします。

そのせいか、私は、しかかりの仕事をできるだけ早く片付けるようその後一週間、予測したように働きず

くめでした。土曜、日曜と久しぶりにゆっくりでき、体を休めることができた夜、姉から母が危篤状態に

なっているという電話をもらいました。そして、午前1時過ぎに母が他界したという姉からの連絡をもら

ったのです。

私はその間、次の作品の台本の直しと再編集した試写用のテープをダビングし、担当者の方たちにメール

を送り、資料送付の宅急便の手配をしていました。母は息子の仕事が順調に行くこと、息子の仕事の支障

になることをすごく気にする人でした。自分のことで息子に迷惑をかけたくないという思いは上京してか

ら常に私が母の気持ちとして感じていたことです。それを思い、仕事関係の方にできるだけ迷惑をかけて

はいけないという思いが沸いてきたのです。

19年前の発病のときは、もうダメだと思いながら、せめて最後に話をしたいという一心で飛行機に乗りま

したが、福岡へ向かう飛行機の中で、締め切りの迫った東京芸大の最終原稿の手直しをしていたのを覚え

ています。それに比べれば、今回の母の他界はどこか予測できていたことだったので、ずいぶん気持ちに

もゆとりがあったと思います。

笑うように横になっている母の顔を見て、また安心しました。最後は眠るようになくなったと聞いて、医

師の言ったとおり、痛みも感じることなく逝くことができたのだと思いました。

通夜、葬儀には900名近い方々が参列いただき、また、多くの方々からお花や弔電をいただきました。本

当にありがとうございました。

母は、ずっとある宗教団体の活動に邁進し、身近な人々の救いのために毎日を過ごしました。それが、母

の生きがいでもあり、喜びでもあったのです。

お嬢さん育ちで、服やアクセサリーなどおしゃれに気をつかい、甘味屋や気の聞いたスイーツの店が大好

きで、家族に囲まれていることをなによりも喜びとしていました。

かわいい母でした。

親不孝を続けた息子をいつも心配してくれている母でした。

おかあさん。ありがとうございました。