秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

一輪の切り花たれ

画一性と均一性。統合と整備。それらを基本とする都市空間では、身体への意識が希薄になる。当然だ。生活のにおいが抹消され、清潔さと無個性な美しさ求められるからだ。
 
それに合わせて、身体も現実の身体からデフォルメされていく。身体はファッション性を生きるための道具とされ、その本来の機能、生活の機能よりも造形の道具として重視される。女性は化粧が上手になり、男女ともにファッショナブルになっていく。
 
同時に、田植えのできる筋肉や土に踏ん張る力、体の軸や姿勢の正しさは失っていく。この国の柔道など武道や他のスポーツが弱くなったといわれるのは、じつは、そのことと無縁ではない。内筋と骨が弱くなり、歪む。
 
身体の生活感や個性を抜き取るために、人々はダイエットに走る。
 
痩身というのは、無個性化への道なのだ。よく考えてみるといい。スリムであるという姿の中に実は、生活や個性は見い出しにくい。見えにくくすることが、美へ向かう方向になっているからだ。それはいわば、地方を消すといってもいい。

たとえば、とてもファッショナブルで、美しく、痩身美に溢れた人を見ると、多くの人がこの人は東京の人なのだろうと思う。それをみて、すぐに埼玉の人、茨城の人、あるいは福井の人…というふうには考えない。そして、そうした人はどの人も実に同じに見える。
 
東京という都市性は、そのようにして、身体からその人の身体をつくった地方の生活や生れながらの遺伝子=特性、個性、身体がもつ地域性すら消し去る。それに適応することが都会人である証明だからだ。

だが、それほどに無個性であろうしながら、どうしようもなく、本来の身体性を保っている人たちがいる。それが異形の人。いわゆる同じように見えるにもかからず、どこかにそれはとは異なる、別の身体性を持つ人たちだ。
 
人の目や気持を惹く造形の何かをもっている人たちだ。じつは、そうした人が俳優やタレントには向いている。つまり、異形の人たちである。
 
すがすがしく、凛として、他を簡単に寄せないバリアを持ちながら、単に美しいのではなく、どこかバランスが悪く、どこか整ってなく、どこか崩れている…。
 
人がそうした人に惹かれるのは、いうまでもない。自分たちが消し去ろうとしている地方性や親や地域がつくった身体性をどこかにしっかり残しているからにほかならない。
 
本来、決して、美形ではなく、達者ではない。だが、ひとたび、何かに憑依(ひょうい)した瞬間、とてつもない美しさや巧みさを帯びる。それはまるで、レンブラント照明の光が生み出す陰影のようにして、既存の美しさとはほど遠いながら、影の力で深い美しさをにじみ出すように。そこでは暗ささえも、美しさに変わる。
 
俳優が、それが美男美女であるほど、厳しい役、苛酷な役、難しい役に挑戦すべきだという理屈はそこにある。つまらない虚栄の殻とちやほやされることに慣れている甘えを脱するためだ。でなければ、異形にはなれない。
 
私はよく、茶室に飾られた一輪の切り花たれと俳優にいう。

その意味することがわかるすぐれた俳優は少ない。異形とは、一輪の切り花という、本来、自然にある美しさとは明らかに異なる異様な姿でありながら、茶室の狭い床の間で、雄大な自然を実際の自然よりも雄大に語る力のことだ。

口伝、伝承、継承。それらを身体でつなぐことは、こうした異形の人を生み出す素地であり、教育をも兼ねている。
 
ここには、地域の空気を震災後失われた地域で、再生しようとしている人々がいる。
 
 
写真は、「大いわき祭」から2年連続で港区のイベントに参加してくれた、子どもじゃんがらと獅子舞の平窪伝統芸能保存会の会長鎌田誠一さんと保存会の子どもたち。
この子たちの身体には、平窪の地域性が受け継がれ、なにかのときに、きっと一輪の切り花の意味を理解することだろう。

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