あのときの授業 あのときの大人たち
「ほら。黒板に書いたこの線を見てごらん」。先生はそういって、黒板いっぱいに描いた長い横線を子どもたちに示した。
「宇宙が誕生したのは、現在の科学の定説では、約140億年前といわれている。この線の始まりだね。そして、ここから、100億年が過ぎて、地球が誕生しているんだ。地球が誕生して、いまみんながいる時間がこの長い線のここってことなるんだよ」。
宇宙と地球の誕生のときにチョークで長い横線の2点に縦線を入れ、先生は、少し驚いたように、線をみつめる子どもたちの顔を一通り見つめた。そして、線の最後の先端にチョークで小さな点を書いた。
「その中の100年にも至らない、この点が、先生やきみちたちのいまってことになる。じつは、この点にもなりはしない、もっと小さいものさ」。
先生は、チョークの粉のついた手を拍手するように叩いて、教壇に正対すると子どもたちに続けた。
「人の一生は宇宙、地球の歴史から見れば、わずかそれだけの、ほんの一瞬のものでしかなんだよ。そんなわずかな時間の中で、私たちは笑ったり、泣いたり、いがみ合ったり、諍い合ったり、競い合って生きているんだな」。そういうと本題に入るように、こういった。
「このわずかな自分たちの一生をとても短いから、どうでもいい時間と思うか。それとも、わずかな時間なのだから、大事にして、一生懸命生きようとするか。その考え方によって、笑う時間が増えるか、いがみ合い、諍う時間が増えるか、無駄に時間を費やすかのどれかが決まってくるんじゃないかと先生は思うんだ」
シンとした教室に少しの間が生まれた。先生はみんなに考える時間をくれていた。そして、子どもたちに尋ねた。
「みんなは、どう思う?」
何人かの子どもが手をあげ、模範解答を答えた。「大事に生きなくてはと思います」「みんなが笑えるように生きないといけないです」…。中には、小学生にしては難しい「一期一会」という言葉を使う頭のいい子どももいた。
何人かの子どもが手をあげ、模範解答を答えた。「大事に生きなくてはと思います」「みんなが笑えるように生きないといけないです」…。中には、小学生にしては難しい「一期一会」という言葉を使う頭のいい子どももいた。
先生は、笑顔で、子どもたちの意見に静かに耳を傾け、頷いていた。一通り、模範解答が出尽くした頃、先生は、さらにこう聞いた。
「では、いまたくさんの立派な意見があったけれど、私たちがいまを大事にしなくてはいけないのは、それが短いから大事にしなくてはいけないのだろうか。いまを大事にしなくてはいけないのは、何のためなんだろう?」
シンとした教室に手を挙げる子どもはいなかった。すると、先生は、途切れていた、チョークで点をつけた線の先にまた、長い線を続けて描いた。
「私たちの短い時間はそれが終わったら、それでおしまいなんだろうか」。先生は言葉にしなかったけれど、子どもたちの幾人かは、そんな先生の声を聴いたような気がした。
“そうなんだ。ぼくらの短い時間は、その次のための短い時間でもあるんだ。宇宙や地球の歴史から考えたら、けし粒のように小さな点だけれど、それがいくつもつなかって、ぼくたちのいまがあり、これからがあるんだ”
シンとした教室に手を挙げる子どもはいなかった。すると、先生は、途切れていた、チョークで点をつけた線の先にまた、長い線を続けて描いた。
「私たちの短い時間はそれが終わったら、それでおしまいなんだろうか」。先生は言葉にしなかったけれど、子どもたちの幾人かは、そんな先生の声を聴いたような気がした。
“そうなんだ。ぼくらの短い時間は、その次のための短い時間でもあるんだ。宇宙や地球の歴史から考えたら、けし粒のように小さな点だけれど、それがいくつもつなかって、ぼくたちのいまがあり、これからがあるんだ”
何人かの子どもは、ぼんやりとだが、そのようなことを感じ取っていた。
“ぼくらの短い時間は、ぼくらのためにあるんじゃないのかもしれない。ぼくらの後にけし粒のような点だけど、短い、それは、それは短い限りなく点にしかみえない、線を引く、次のだれかのためのいまでもあるんだ”
ぼくは、そのとき、そんなことを考えていたような気がする。そして、いまぼくらの時間は、模範解答のクラスメートがいうように、みんなが生きられているのだろうか。模範解答を答えることはできる。でも、大事なのは、そんなふうに生きる機会や場がない人がいることなんじゃないだろうか…
みんなが同じように、いまを喜びをもって生きられる世の中なんだろうか。そして、なによりも、ぼくらは、次の点にしかみえない、短い線を生きる人たちのことを一番に考えたいまをつくっているのだろうか…
“ぼくらの短い時間は、ぼくらのためにあるんじゃないのかもしれない。ぼくらの後にけし粒のような点だけど、短い、それは、それは短い限りなく点にしかみえない、線を引く、次のだれかのためのいまでもあるんだ”
ぼくは、そのとき、そんなことを考えていたような気がする。そして、いまぼくらの時間は、模範解答のクラスメートがいうように、みんなが生きられているのだろうか。模範解答を答えることはできる。でも、大事なのは、そんなふうに生きる機会や場がない人がいることなんじゃないだろうか…
みんなが同じように、いまを喜びをもって生きられる世の中なんだろうか。そして、なによりも、ぼくらは、次の点にしかみえない、短い線を生きる人たちのことを一番に考えたいまをつくっているのだろうか…
いまの自分の目先のことだけしか考えない世の中のあり方は、きっと次の短い線のことを何も考えていないことと同じなんだ…ぼくはそう思っていた。
ぼくは、あのときの授業をいまもよく覚えている。子どもでもわかる、いや子どもだからこそわかる、当たり前のことが、ちっとも大人たちにはわかっていない。
そう思った、あのときの大人たちは、まだ、あのときのまま、いまこの国の政治や経済、社会のあちこちに、あのときのままいる。