秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

もがき方のヒント

新規サイトに移動した最初に、なんとなく書く。

三島由紀夫の文学にはふれても、三島がなぜ、あれほどに土俗的な生活文化、通俗と崇高さの混濁に執着したか、正確にいえば、憧憬を強く抱いていたかを知る人は少ないだろう。

演劇的にであれ、民俗学的にであれ、あるいは、哲学、宗教学、脳科学、生物学、運動生理学的にであれ、伝統や文化といったものへの探求は、身体性を通して、自分たちは何者であるかを問い直す作業だ。

地方文化の集積と洗練化が国、世界の文化をつくるように、土俗的、通俗的な習慣、慣習、それらがつくる社会通念といったものが、国、世界の様々な生活文化の基準にまで深く関与している。

言い換えれば、地方の土俗性が生み出す粗削りながら力強い確信に満ちた文化の発信がなければ、そして、その継続と維持がなければ、国、世界の基準を支えるものが揺らぎ、文化の停滞、引いては、国の疲弊を生むことにつながる。

流動性を生きないと決意したものたちにだけ与えられる、この確信が失われれば、地方の溶解が始まり、ついには、基準とすべき拠り所、根拠は失われ、自分たちは何者でもない、何かという不透明性しか得られなくなる。

自分たちの足元を見直していけば、窮屈さや優位さを含め、地方の何たるかがわかり、都市の何たるかが見えてくる。

その先には、この国の何たるか、世界の何たるかが見えてくるはずだ…三島はそう考えた。ゆえに、地方の文化、身体性にこだわり、性的で、通俗的、土俗的なものを突破する先に見える、崇高なものの屹立を夢想したのだ。

だから、三島は性を描いた。それも実に二次元的に。

生来、人間の営みとしてあり、業ともなる性なるものは通俗でありながら、性愛という言葉があるように、愛という掴みどころも、確かさもない、ゆえに、崇高なものとつながっている。それを相対化させ、より鮮明にするために、あえて二次元の表層として描いた。

愛を描くのではなく、葛藤を。憎悪を。愛を信じるのではなく、切りさいなむ。それでもなお、性でつながり、だが、通俗な単なる淫欲に終わらないものにこそ、美があると三島は信じたからだ。

ぼくらの時代は、この通俗と崇高の混濁が生む世界をよしとしない文化をつくってきた。通俗と崇高とに整理し、整理するだけでなく、通俗的なるものを猥雑なもの、余剰なものとして、葬ってきたのだ。

あるいは、通俗を消費社会に取り込んできた。それを文化の多様性という人もいる。

だが、それによって運ばれてきたのは、ますます深まった自己の不透明性だ。

ぼくはいま、二つの書籍の企画出版に挑戦している。自らの不透明性ゆえに、限りなく承認欲求が高くなったこの社会、世界で、そこでの<もがき方のヒント>となればと考えてのことだ。

自己責任という名のカッティングオペレーション

貧富の差を語るとき、自己責任という言葉がこの国では付きまとう。付きまとうだけでなく、まず、先に出るのは自己責任だ。

顕著になったのは、言うまでもない、小泉政権時代。アメリカ、イギリスから始まった新自由主義の潮流をこの国にいわば強引に導入したときだ。

同じ頃、就労形態の多様性は人々の新しい生き方の選択の幅を広げるという美名にカムフラージュされて、フリーター、契約、派遣といった非正規雇用労働の拡大が経団連の旗振りで始まっている。

終身雇用への足かせがはずれ、成果主義が登場し、ここにもリストラされる社員への自己責任論が登場する。

社会的にも、当時、いじめや不登校、ひきもり、ニートの問題が浮上していたが、これもそうなった側に問題があるとする自己責任論が幅を利かせていた。社会への適応能力に欠けているお前のせいだ。つまり、自己責任だというわけ。

中東の紛争地帯で活動していたNPO団体のスタッフが拉致されて、彼らが無事帰還したとき、激しいパッシングに遭った。その後、命を落とした青年やジャーナリストもいたが、ここでも紛争地帯へ行った本人の自己責任を問う声が激しかった。

自己責任という言葉は、じつに都合のいい言葉だ。すべを自己責任で片づければ、政治や社会、制度の問題点は指摘されることもなく、追求もされない。

あいつが悪い。それがあれば、自分の問題として考える必要もなく、自分の正当性だけを主張できる。社会の矛盾や根底にある政治や制度の問題に目をむけず、他者の苦しみや苦悶に思いを馳せる必要もない。

競争に参加できな者、競争に勝てない者、競争に置いていかれる弱い者は、社会の発展や成長に寄与しない。そんな考え方が、障害者施設を襲わせ、コミュニケーションが得意でない人間へのいじめや排除、暴力を生み、助長させる。外国人への暴言や偏見、高齢者への虐待を、児童への、女性への虐待を日常化させていく。

ぼくらの社会は、自己責任の名のもとに、問題を見えなくする、なかったことにする。ぼくらの社会は、自己責任の名のもとに、社会の速さとは別のスピードしか持たない者の人権や生活権、場合によって生存権すら反故にする。

社会に起きるさまざまな事件、事故、犯罪を犯人探しと自己責任で、表層的に片づけ、自分たちの問題、国や社会のあり方の問題としないとことで、この国はなんと長い間、多くの動機不明の事件、無差別殺傷事件を生み出していることだろう。

カッティングオペレーションで世界はよくない方向にこそ向え、決して改善はされていかない。












主役はだれかなのか忘れてはいないか

女性の参政権がこの国で認められて、まだ、わずか70年しか経っていない。戦後、日本国憲法が誕生してからのことだ。かのイギリスでさえ、わずか100年程前。

それまで、女性は政治にかかわることもできなければ、自らの権利や人権を主張することもできなければ、それが守られてもいなかった。

女性は国、社会、地域、職場、家庭で常に脇役であり、男性の雑用係であり、男性の隷従者であることを要求され、決して、舞台の主役となることはなかったのだ。

近代と前近代との大きな違いは、市民が分け隔てなく、政治に参加できているか否かだ。そして、政治の使命は、市民の実状と声に向き合い、分け隔てなく、市民一人ひとりの生活を守り、その質を高めていくことでしかない。

なぜか。それは舞台の主役は、市民であり、国民だからで、決して政治家でもなければ、官僚でも、まして、財閥や大手企業の経営者、天下り企業のものではないからだ。

ところが、いまこの国では、子どもの7人にひとりが貧困に置かれ、食事を満足に食べられない状況が放置されている。

若い単身女性の多くが非正規雇用でしか働けず、平均年収は114万円。バイトの掛け持ちでは追い付かず、風俗でからだを売るか、セックスで生活費をもらうパパ活でもしないと普通の生活ができない状態に置かれている。

それもかっての援交のように、遊ぶ金欲しさのお小遣い稼ぎではなく、今日の生活を維持するためにだ。

シングルマザーの生活に至っては貧困率が50%を越え、先進国でトップとなっている。

法外な年収を得る人間や親の資産を背景に安定した生活を過ごす層がいる一方、明日の暮しもギリギリの相対的貧困が広がっている。しかも、これは増大こそすれ、是正の方向には向かっていない。親の貧困が子どもへとつながる、貧困の連鎖が生まれ、固定化してきているからだ。

貧困と借金、大学の貸与奨学金返済による生活苦は、目の前の時間と仕事、それによって得る、わずかなお金しか見えなくさせる。生活苦は身体的に過重な労働となるだけでなく、それが心も壊していく。

そんな生活を強いられて、とても社会の問題や政治を考えるゆとりなどない。意見を言うどころか、自己の権利や人権にさえ、思いいたらない。

人は生活に追われてしまうと、何も考えなくなる。どんな理不尽さも受けれ、流されてしまう。社会の枠から外れてしまっている自分を責め、諦めていく。

そして、このつらさ、苦しさを終わらせるために、自死を選んでいく。この国の自殺率のトップは若年世代だ。自殺率を含め、それは先進国でも群を抜いている。

すべて主役は、政権や政治家、政党だ。中央官僚や行政だ。根拠のない正当性は雇う側、企業にあり、そこに働く人間は、脇役以下に追いやられている。

言葉遣いは丁寧で慎重ながら、自分が主役であるという意識は揺るがない。

指示通り、意のままに動いていればそれでよく、動かなくなっても入れ替え可能な人間はいる。親からの資産もない、非正規雇用労働者を量産しているからだ。格安で働く外国人労働者を受け入れていくつもりだからだ。

この状況が新しい日本の未来像の姿だとしたら、若い世代を食いつぶしていくことがこの国の未来だとしたら、夢を持ってこの国に来た外国人を使い捨てにすることがこの国のこれからだとしたら…

この国は、近代とは名ばかりの前近代を目指していることになる。いまの世の中、ぼくら国民を含め、主役がだれなのかをすっかり忘れてはいないだろうか…。














承認という病のバイオハザード

かつて、ぼくらの思春期の承認は、先生から褒められることでも、親から認められることでも、成績がいいことでもなかった。

それらはあった方がいいには決まってるし、ぼくらもあった方がいいだろうなとわかっていた。

だが、幼少期から思春期前期まではそうだったとしても、思春期になるとそれがすべてではない、当てにならないものという見限りが決定的に、ぼくら、少なくともぼくには、あった。

どこかで、いまある世間の承認の基準が絶対なものではないという確信があったからだ。それよりも、自分の納得いく形で、納得できることを、未熟さゆえの苦労があっても、大人の評価を気にかけず、楽しみながら実現していく方が、よほど自分に自信が持てる…そう考えていたように思う。

同世代の仲間や近い世代の後輩たちから認められることが何よりも重要で、上の世代や大人の照準に合わせて、もらう承認など、意味がないと思っていた。承認は勝ち取るもので、もらうものは何の価値もない。それは、本質的に、いまも変わらない。

ぼくの言葉や取組が若い世代や高校生たちの心に届かなくなったら…。社会的に居心地のいい肩書きを与えられ、評価を受け、それに安心感や優越感を覚えるようになったら…。それは、ぼくが思春期、青年期に評価されても仕方がないと思った、くらだらいない老害オヤジに成り下がった証だと思っている。

いま、若い世代から中年世代まで、憑かれたように、だれでもいい他者からの承認や組織や集団からの社会的評価の承認の欲求に溢れている。それは、ほぼ社会病理といっていい。

それが社会の保守化を進め、権力の求める従順で、批評性を失った人間を量産している。生活の障害や問題、苦難は、すべて自分のせいだと思い込むのも、被害、暴力に遭っても声を出せない人間をつくり出すのも、それを見過ごしてしまう人間を増大させているのも、それだ。

社会的な枠組みから外されてしまったら、どう生きていいかわらかない。そのために、社会的な枠組みの中にいるためには、何でもする、何でもやるという人間をつくり出しているのだ。

社会的な枠組みに残ることさえできれば、それをどのような手段で得たとしても、自分への承認がもらえ、弾き出されることはない…そう考えるからやっていられる。

しかし、それは一人の人間の生き方として、途轍もなく、恥ずかしいことだし、騙されていることになる。

倫理とかに照らしてなどいう、つまらない道徳観からではない。そうやって得た社会的な立ち位置から、かりそめに得た、底割れしそうな足場に立って、他者に語れる言葉があるのか、他者へ伝えられる何かがあるのだろか。次の世代へ残せる何かがあるのだろうか…ということだ。

それは、ぼくには、承認のための自傷行為のように思えて仕方がない。ぼくらの社会は、承認という病の感染者が広がる、バイオハザードへと向かっているのかもしれない。

感染者ではない者から見たら、その風景はあまりに異常に見えるはずだ。見えないとしたら、それはあなたがもうすでに承認という病に感染しているからに違いない。
















数学なんて苦手~とかいってる場合じゃない

人類は文明といわれるものが誕生する以前の古代から数学を使っている。石器をつくるにしても、獣を襲うにせよ、火を起こすことにも数学や物理学が関与している。

文明の誕生と発展に、数学は欠かせないもので、ぼくらが話す言葉、言語も数学だ。音楽も、演劇も、美術も、芸術といわれるものもその域から出てはいない。どんなアヴァンギャルドであっても、同じだ。使う数式や公式を変えているだけのことだ。

多くの人は気づかない。おもしろい小説、映画、舞台といったものには、必ず、神話や寓話が内在している。ぼくら人類は、そして脳は、ぼくらが思うほど、奇抜でも、斬新でもなく、じつは類型的にできているのだ。

ただ、類型的だからこそ、謎をみつけると解きたくなる。わからないことを知りたくなる。類型から抜け出すための新しい何かをみつけたくなる。いわば、それが人類の発展を支えてきた。いつの時代も同じように、じつに類型的にね。

結果、ぼくらの世界には、多くの定理が存在する。

定理が存在するのは、人類が自然界にある多くの謎を解きたいと思い、そこに命題見つけてきたからだ。

そして、それまでの歴史で見つかったいくつかの公理や定義をもとに、命題に解答し、これを証明することで定理としてきた。

なぜか。それは世界を知りたいと考えたから。自分とは何かを知りたいから。よりよくありたいと願ったから。もっといえば、世界をつくった創造主(神)は何かを知りたかったからだ。

天地人という言葉ある。何事かを達成するためには、天の時、地の利、人の和のどれが欠けてもうまくいかないという意味だが、物事がうまくいっているときには、そこに定理が動いている。つまり、理に適っていることをやっているからだ。

失敗事例や成功事例をぼくらは、ついつい感情的に説明したり、あるいは天地人のような譬えにしてしまうけれど、そこには、定理に基づく、きれいな数式が実は隠れている。

こうすればこうなるのではない。その式にたどりつくまでには定理が動いている。こうなるための、あらゆる要素がそこにある。当然ながら、こうしたいという感情、思い、願いとったものも、実はエネルギー、力という数にできる。

数、数式は嘘をつかない。定理に逆らい、勝手な公理や定義、でっちあげた数と数式は、それが正しいとは決して、証明されないからだ。

ぼくらの国、いまの世界は、定理を無視し、国のリーダーといわれる人たちが、勝手な数や数式をでっちあげ、あたかもそれが国や世界の命題を解決できる証明された
定理をみつけたかのようにふるまってはいないだろうか。それこそが正しいことであるかのように扇動、誘導しながら。

それを見破れないのは、ぼくら自身が定理をわかっていないからだ。数学なんて苦手~とか、いってる場合じゃない。

ぼくらくらいなもの

数人の高校生たちが始めた環境保護を訴える運動。それがいま欧米を中心に世界の高校生に広がっている。

ハリウッド女優や政治家のインターン女性が、勇気を出して声を上げたセクハラ被害。いまはme too 運動として世界的な言葉になった。

格差への反発はパリを中心に大規模デモを生み、政権が慌てて低所得者救済政策を打ち出したが、デモの勢いは止まらなかった。

「小事にとらわれず、大局を見ろ」「木を見て、森を見ず」。

つまりは、物事や事象を小さな視点、狭い視野でなく、俯瞰から捉えろということだけれど…果たして、この言葉、いまぼくらが生きている世界にふさわしい譬えといえるのだろうか。

食料品や日常雑貨品が値上げになり、年金支給額や生活保護費が削られる。社会のセーフティネットである高齢者保護や福祉予算が軒並み削られている上に、実質賃金は減少が続いている。

それでも、株価が20,000円代を維持しているだけで、日銀短観も政府の景気動向発表も決して悪いとは発表されない。根拠となる指数のデータの改ざんや破棄があってもだ。

先進国で唯一、子どもの貧困が7人にひとり。単身女性の平均年収が114万円。シングルマザーに至っては、その貧困率は世界1位。

東日本大震災からの復興は、お涙頂戴式の話題は盛んに取り上げられても、いまどうなのかを課題や問題点を的確に、丁寧に伝えるマスコミはじつに少ない。

そうしたことは、小事とされ、大局で復興は進んでいる、経済は安定しているとほぼすべての大手マスコミが報じる。大局でオリパラを盛んに煽りながら、小事で、どうあるべきかの議論を提案する報道はない。

多様性と流動性の時代といわれるようになってから、グローバリズムに軋みが出ているにもかかわらず、実態生活からかい離して、国際社会の動向だからと一律に小事を否定した結果、イギリスのEU離脱を生み、アメリカのトランプというおおよそ大統領にふさわしくないヤンキーを権力の頂点に置いてしまったのだ。

こうした視点を持つためには、当然ながら大局を、森を見なくてはできない。

だが、それを見るために必要なのは、小事をしっかり理解することからだ。漫然と全体を見ても、いまという時代、大局も、森も、その実態を捉えることはできないようになっている。どれが大局なのか、どういう森なのかがわからない。

まずは、自分の眼が届いていない、小事の現実に目を凝らすこと。グローバリズム資本主義を変えられるのは、そんな力だ。

そして、それは、いまもう始まっている。おそらく、まだ腰をあげなてないのは、この国のぼくらくらいなものだ。








どこへ行けるというのか

『オリンピックの身代金』(KADOKAWA刊・奥田英朗著)という本がある。テレビドラマ化もされている。

昭和39年の東京オリンピックを舞台にした、いまでいう爆破テロ計画を企てた男のノンフィクションだが、その背景に描かれいるものは事実だ。

当時、日本中がオリンピックに沸き、華やかな表舞台にしか目がいかない中、会場建設や高速道路整備に東北の農村地域から多くの季節労働者が動員され、事故死を遂げている。

余談だが、その中には、まだ福島第一原発のなかった、大熊町なども含まれている。原発を受け入れた最大の決め手は、原発があれば、家族が一年一緒に暮らせることだった。それほどに農家は出稼ぎに頼らなくてはまだ生活が厳しい時代だったのだ。

飯場といわれる簡易宿泊所に寝起きし、人入れ仲介業者(現在の派遣会社の前身)にピンハネされ、低賃金と過酷な労働の中で、楽しみといえば、博打と酒。それで身を持ち崩し、故郷を捨てた者もいれば、ホームレスになった人間もいる。

誘惑に負けず、懸命に働き、妻子の待つ故郷へ帰れる者が大半だが、現場での怪我や事故における傷害や死亡補償は当時、ないに等しかった。だから、過酷な現場、危険な現場ほど手当がよく、また、それが作業経験がないための死亡事故にもつながった。

ぼくらがいま利用する高速道路も、旧国立競技場もそのような犠牲の上でつくられ、ほどんどの人がその事実をいまでも知らない。

兄のいのちを奪われ、見向きもされない現実に、自らも東京という都市に受入れられなかった男が地域格差と貧富差への復讐として、オリンピックの虚栄を暴くために事件を起こす。

主人公にはっきりしたテロ意識があったわけではない。また、政治的な思想を持って行動したわけでもない。

しかし、思想犯に仕立て上げられ、左翼思想にかぶれた男の未遂事件として葬られる。それが権力の側にとって、彼が一番訴えたかった地域格差、貧困格差を隠す都合のいい筋書だったからだ。

この小説がいいたいことははっきりしている。そして、それは今日の東京オリンピックの姿にもつながっている。

昭和39年のあのときと経済事情は大きく変わった。だが、地域間格差はより広がり、経済はゆるやかな回復などという美名に隠れて、置き去りにされている貧困がこの国には広がり、ますます拡大する方向にしか、政策は機能していない。

復興オリンピックなどといわれながら、その恩恵を受けるのはごくわずかな東北の地域と東京だけのものだ。

いま新年号に沸く、この国は、繁栄の影で見捨てられているもの、切り捨てられているものへ目を向けることもなく、どこへ行こうというのか、行けるというのか。





















あなたは世界から愛されているか

世界から尊敬され、信頼され、愛される国であってほしい。そういう日本でありたい、国民でありたい…。そう願わない人はいるのだろうか。

日本国憲法が目指したのは、戦争の過ちを犯し、自国民はもとより、アジア諸国を中心に世界に多大な苦難を与えた日本が、これからは世界の見本となるような国家を建設することで、過ちを贖うだけでなく、世界平和を牽引する手本となることを、いま現在、そして将来の目標として、国際社会に宣言した宣誓書だ。

ぼくは中学生のとき、その前文を授業で学び、震えるように感動したのをいまでもはっきり覚えている。そして、一つひとつの条文に込められた民主主義の精神、基本的人権国民主権を毅然と示す文言のすべてに感動した。

そして同時に、それが現実社会において決してすべてが実現されているのではなく、この宣誓書の理想に向けて、飽くなき道を求めていくことがぼくら国民一人ひとりの使命なのだと確信した。

ぼくのその後の人生と折々の暮らしの場と人の輪の中で、実現しようとしてきたものの青写真、下書きとしてあるのは、常に日本国憲法だ。それは生きる基本にあった。

15歳のときからぼくはその実践の延長にしか、自分の人生を生きてきていないと断言できる。

自ら戦争に明け暮れ、敗戦後は、米軍の最大の極東の軍事基地として何がしか、アメリカの戦争に関わり続けている昭和・平成から、もうすぐ、内閣主導で年号名が決められた、令和に変わる。

その内閣は、戦後史の中で、もっとも日本国憲法を踏みにじり、その精神を歪曲し、積極的平和主義などという造語で、日本国憲法に反する軍事化と集団的自衛権の行使を可能にした戦後最悪の政権だ。

退位発表の陛下のお言葉に、「象徴として」という文言が何度も登場した。それが意味するものが何なのか、多くの国民が深く理解していない。

象徴としての天皇を生きる…その言葉にあるのは、日本国憲法の実践こそが天皇の使命であり、平和憲法を守り、国民生活を守ることであったという宣言でもあったのだ。それは明らかに、現行の政権のあり方への明確な批評だった。

世界から尊敬され、信頼され、愛される国。それは、世界から尊敬され、信頼され、愛される国民でいたいかどうかの問いだ。

歴史認識をゆがめ、自分たちに戦争責任はなかったことにすることが尊敬される道なのか。大陸や半島の人々にヘイトスピーチを投げつけることで国際社会から信頼がえられるのか。アメリカ隷従は国際社会から愛される道なのか。

自然循環型社会の江戸期まではあった、外国人に寛容で、融和的であり、300年も国内外での戦争にかかわらなかった日本が育んだ精神文化にあるものを、年号が変わるこの節目に、もう一度、ぼくらは本気で見つめ直した方がいい。

あなたは、あなたの考えは、世界から尊敬され、信頼され、愛されるものか。天皇の歩みをみつめながら、考えてみることだ。














風評という言葉はいらない

福島県が退去を拒否している自主避難者の避難住宅(借り上げ)からの退去勧告を行ったことが弱者切り捨てのように叩かれている。

ここに来るまで、1年以上かけて、県の担当職員、自主避難者の自治体職員が自主避難者一人ひとりに国の予算の期限切れについて説明をし、その度に、暴言や文句、ときには罵詈雑言をぶつけられながら、頭を下げて、こまめな取組をどれだけ重ねてきたかを全く知らない。

中には、線量に問題はないにもかかわらず、過剰に反応し、自らふるさとを去った自主避難者と放射線量の危険性からやむなく、ふるさとを後にした、避難者とを混同している人までいる。

まして、帰宅困難地域に隣接する双葉郡など隣接する地域の人たちばかりが自主避難していると勘違いしている輩までいる。

原発から遠いが、一時線量が高かったために、子どもの健康を心配して、やむなく避難し、東京や首都圏、県内の別の地域で生活を始めた家族をぼくもよく知っている。

だが、その大半は、自らの選択で土地を離れた以上、しっかりとここでの暮らしを新たに築いていこうと考えている人たちばかりだ。決して、国の予算にぶらさがり続けようと考えている人たちではない。

しかも、決して福島のこと、自分たちのいた土地のことを悪くいう人などひとりもいない。それどころか、離れてしまったが、いまいる場所から福島のためにできること、ふるさとのためにできることをやろうという思いを持った人たちだ。

確かに、放射能はこわい。目に見えないものだからこそ、こわい。いますぐ、健康被害がなくても、数年後、十数年後がどうなかのか、はっきりしたデータがないから、こわい。

国の被爆規準、線量を軽減するための除染作業についての疑念はぼくにもある。だが、だからといって、自主避難生活を永遠に支える妥当な根拠にはならない。

同じように不安を抱えても、自主避難してきた人たちの土地で、地域の再建のために、再生、新生のために、日常を取り返すために、あのときから、ずっと、汗水流している人たちがいる。原発事故地域のような保証も、住宅補助もない中で、それを生きている人たちがいるのだ。

都内・首都圏のNPOなどで、自主避難者の支援をやっている団体がいくつかある。
ぼくもそうした集まりに参加したことがあった。そこで当事者から聴こえてくる言葉は、地域行政への批判とすべての責任は原子力災害だという声ばかりだった。

それだけならまだいい。

線量は決して低くない。自分の体調不良は放射能が原因だ。原発事故のために、生活もできなくなった…。科学的根拠も、医療的証左も示さず、被害者意識をそのままぶつける言葉ばかりだ。

断っておくが、大熊や双葉の人たちではない。多くの住民がいまも通常の生活を送っている別の地域の人たちの言葉だ。

一度も福島のいまを観たことも、行ったこともない、状況を知らない都会の人間が聴けば、当然、同情もすれば、かわいそうにも思うだろう。そして、そんなに危険な地域なのかと信じるだろう。

それが福島への風評を倍加させている。

風評という言葉はぼくは好きではない。ぼくの福島県内の仲間、友人たちも風評という言葉をよしとしていない。

自分たちがもっといいものをつくればそれでいい。自分たちの生産するものに自信があれば、乗り越えらるし、自分たちの生産したものがどれだけ素晴らしいかを伝えていく…他人のせいにしていない。自分たちの努力のあり方だと自らの課題にしているのだ。

国や県の予算にぶらさがって開ける未来など、高が知れてる。震災・原子力災害を自分たちの地域の明日を拓く教訓とできるものが、福島の未来を力強く、拓いていくことができる。ぼくが勝手にそう思うのではない。

ぼくが出会い、いま旧友のように、同志のように語らう県内の踏みどどまって闘っている友人たちがそう教えてくれている。















アップデートできない国

多数派であろう。そして、できれば、多数派の中枢にいたい。

いまに始まったことではないが、まるでDNAに組み込まれたもののように、多くの日本人がそう思っている。

そう生きることでこれといった変革や改革も起こさず、ただ以前あったシステムや制度、形式の表面だけを貼り換え、塗り替え、あるいは継ぎ足して、変革だの、イノベーションだのと大仰に騒いできた。

前例にこだわらず、時にはそれを捨て去り、潜在的な欲求や隠れた意志、ビジョン化されていないもの、言語化まで辿り着いていない社会現象や人々の生活にある未来志向を掴みとり、前例のないパラダイムやプラットフォームを創造することをぼくらは長い間やってきていない。

やってきた気でいるだけだ。

IT革命があっても、所詮、産業革命の延長にしかなかったぼくらの生産活動や生活形態がAIの技術開発の進展で、5年から10年後には、大きく様変わりするとわかったいまでも、官公庁の公式文書はA4サイズと決まっているし、ペーパー優先主義は変わっていない。

先ごろ、暴かれたように、中央省庁のデータ改ざんが平然と行われ、ひどいのは手書きで修正されている。内閣の大臣面会記録が矢継ぎ早に破棄されていたりする。

いかにこれまでとは違う〇〇ですと胸を張ろうが、遅れた脳が考える新しいことは、所詮、陳腐な代物でしかない。

ということがわかりながら、そうした多数派の輪の中に多くの人はいたがり、自分たちの遅れた脳、まったく更新も、アップデートもされていない、腐った脳で、陳腐なアイディア、発案をさも新しいことのように公言して満足しているのだ。

変革はそのようには生まれない。小手先で、わずかな見栄え、体裁をいじっても変革にはならない。規模は小さいてもいい。だが、発想と着眼と視座は、広角で大胆で、反逆的なるものでなくては、大きな変革にはつながらない。

多数派の中にいたい、多数派の主流でいたい腐った脳の人間たちには、当然そんなことはできない。腐った脳が未来志向の意志を摘み取り、状況を停滞させるどころか、より悪化させていく。

それでもDNAに組み込まれて、そこからの飛躍も飛翔もできないなら、腐った脳を好きなだけ蔓延させ、次を生きる人たちから戦犯として処刑される道を歩むことだ。

それがわかってるから、慌てて、保管すべき公文書を改ざん、破棄している。