秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

自己責任という名のカッティングオペレーション

貧富の差を語るとき、自己責任という言葉がこの国では付きまとう。付きまとうだけでなく、まず、先に出るのは自己責任だ。

顕著になったのは、言うまでもない、小泉政権時代。アメリカ、イギリスから始まった新自由主義の潮流をこの国にいわば強引に導入したときだ。

同じ頃、就労形態の多様性は人々の新しい生き方の選択の幅を広げるという美名にカムフラージュされて、フリーター、契約、派遣といった非正規雇用労働の拡大が経団連の旗振りで始まっている。

終身雇用への足かせがはずれ、成果主義が登場し、ここにもリストラされる社員への自己責任論が登場する。

社会的にも、当時、いじめや不登校、ひきもり、ニートの問題が浮上していたが、これもそうなった側に問題があるとする自己責任論が幅を利かせていた。社会への適応能力に欠けているお前のせいだ。つまり、自己責任だというわけ。

中東の紛争地帯で活動していたNPO団体のスタッフが拉致されて、彼らが無事帰還したとき、激しいパッシングに遭った。その後、命を落とした青年やジャーナリストもいたが、ここでも紛争地帯へ行った本人の自己責任を問う声が激しかった。

自己責任という言葉は、じつに都合のいい言葉だ。すべを自己責任で片づければ、政治や社会、制度の問題点は指摘されることもなく、追求もされない。

あいつが悪い。それがあれば、自分の問題として考える必要もなく、自分の正当性だけを主張できる。社会の矛盾や根底にある政治や制度の問題に目をむけず、他者の苦しみや苦悶に思いを馳せる必要もない。

競争に参加できな者、競争に勝てない者、競争に置いていかれる弱い者は、社会の発展や成長に寄与しない。そんな考え方が、障害者施設を襲わせ、コミュニケーションが得意でない人間へのいじめや排除、暴力を生み、助長させる。外国人への暴言や偏見、高齢者への虐待を、児童への、女性への虐待を日常化させていく。

ぼくらの社会は、自己責任の名のもとに、問題を見えなくする、なかったことにする。ぼくらの社会は、自己責任の名のもとに、社会の速さとは別のスピードしか持たない者の人権や生活権、場合によって生存権すら反故にする。

社会に起きるさまざまな事件、事故、犯罪を犯人探しと自己責任で、表層的に片づけ、自分たちの問題、国や社会のあり方の問題としないとことで、この国はなんと長い間、多くの動機不明の事件、無差別殺傷事件を生み出していることだろう。

カッティングオペレーションで世界はよくない方向にこそ向え、決して改善はされていかない。