秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

数学なんて苦手~とかいってる場合じゃない

人類は文明といわれるものが誕生する以前の古代から数学を使っている。石器をつくるにしても、獣を襲うにせよ、火を起こすことにも数学や物理学が関与している。

文明の誕生と発展に、数学は欠かせないもので、ぼくらが話す言葉、言語も数学だ。音楽も、演劇も、美術も、芸術といわれるものもその域から出てはいない。どんなアヴァンギャルドであっても、同じだ。使う数式や公式を変えているだけのことだ。

多くの人は気づかない。おもしろい小説、映画、舞台といったものには、必ず、神話や寓話が内在している。ぼくら人類は、そして脳は、ぼくらが思うほど、奇抜でも、斬新でもなく、じつは類型的にできているのだ。

ただ、類型的だからこそ、謎をみつけると解きたくなる。わからないことを知りたくなる。類型から抜け出すための新しい何かをみつけたくなる。いわば、それが人類の発展を支えてきた。いつの時代も同じように、じつに類型的にね。

結果、ぼくらの世界には、多くの定理が存在する。

定理が存在するのは、人類が自然界にある多くの謎を解きたいと思い、そこに命題見つけてきたからだ。

そして、それまでの歴史で見つかったいくつかの公理や定義をもとに、命題に解答し、これを証明することで定理としてきた。

なぜか。それは世界を知りたいと考えたから。自分とは何かを知りたいから。よりよくありたいと願ったから。もっといえば、世界をつくった創造主(神)は何かを知りたかったからだ。

天地人という言葉ある。何事かを達成するためには、天の時、地の利、人の和のどれが欠けてもうまくいかないという意味だが、物事がうまくいっているときには、そこに定理が動いている。つまり、理に適っていることをやっているからだ。

失敗事例や成功事例をぼくらは、ついつい感情的に説明したり、あるいは天地人のような譬えにしてしまうけれど、そこには、定理に基づく、きれいな数式が実は隠れている。

こうすればこうなるのではない。その式にたどりつくまでには定理が動いている。こうなるための、あらゆる要素がそこにある。当然ながら、こうしたいという感情、思い、願いとったものも、実はエネルギー、力という数にできる。

数、数式は嘘をつかない。定理に逆らい、勝手な公理や定義、でっちあげた数と数式は、それが正しいとは決して、証明されないからだ。

ぼくらの国、いまの世界は、定理を無視し、国のリーダーといわれる人たちが、勝手な数や数式をでっちあげ、あたかもそれが国や世界の命題を解決できる証明された
定理をみつけたかのようにふるまってはいないだろうか。それこそが正しいことであるかのように扇動、誘導しながら。

それを見破れないのは、ぼくら自身が定理をわかっていないからだ。数学なんて苦手~とか、いってる場合じゃない。