秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

承認という病のバイオハザード

かつて、ぼくらの思春期の承認は、先生から褒められることでも、親から認められることでも、成績がいいことでもなかった。

それらはあった方がいいには決まってるし、ぼくらもあった方がいいだろうなとわかっていた。

だが、幼少期から思春期前期まではそうだったとしても、思春期になるとそれがすべてではない、当てにならないものという見限りが決定的に、ぼくら、少なくともぼくには、あった。

どこかで、いまある世間の承認の基準が絶対なものではないという確信があったからだ。それよりも、自分の納得いく形で、納得できることを、未熟さゆえの苦労があっても、大人の評価を気にかけず、楽しみながら実現していく方が、よほど自分に自信が持てる…そう考えていたように思う。

同世代の仲間や近い世代の後輩たちから認められることが何よりも重要で、上の世代や大人の照準に合わせて、もらう承認など、意味がないと思っていた。承認は勝ち取るもので、もらうものは何の価値もない。それは、本質的に、いまも変わらない。

ぼくの言葉や取組が若い世代や高校生たちの心に届かなくなったら…。社会的に居心地のいい肩書きを与えられ、評価を受け、それに安心感や優越感を覚えるようになったら…。それは、ぼくが思春期、青年期に評価されても仕方がないと思った、くらだらいない老害オヤジに成り下がった証だと思っている。

いま、若い世代から中年世代まで、憑かれたように、だれでもいい他者からの承認や組織や集団からの社会的評価の承認の欲求に溢れている。それは、ほぼ社会病理といっていい。

それが社会の保守化を進め、権力の求める従順で、批評性を失った人間を量産している。生活の障害や問題、苦難は、すべて自分のせいだと思い込むのも、被害、暴力に遭っても声を出せない人間をつくり出すのも、それを見過ごしてしまう人間を増大させているのも、それだ。

社会的な枠組みから外されてしまったら、どう生きていいかわらかない。そのために、社会的な枠組みの中にいるためには、何でもする、何でもやるという人間をつくり出しているのだ。

社会的な枠組みに残ることさえできれば、それをどのような手段で得たとしても、自分への承認がもらえ、弾き出されることはない…そう考えるからやっていられる。

しかし、それは一人の人間の生き方として、途轍もなく、恥ずかしいことだし、騙されていることになる。

倫理とかに照らしてなどいう、つまらない道徳観からではない。そうやって得た社会的な立ち位置から、かりそめに得た、底割れしそうな足場に立って、他者に語れる言葉があるのか、他者へ伝えられる何かがあるのだろか。次の世代へ残せる何かがあるのだろうか…ということだ。

それは、ぼくには、承認のための自傷行為のように思えて仕方がない。ぼくらの社会は、承認という病の感染者が広がる、バイオハザードへと向かっているのかもしれない。

感染者ではない者から見たら、その風景はあまりに異常に見えるはずだ。見えないとしたら、それはあなたがもうすでに承認という病に感染しているからに違いない。