秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

もがき方のヒント

新規サイトに移動した最初に、なんとなく書く。

三島由紀夫の文学にはふれても、三島がなぜ、あれほどに土俗的な生活文化、通俗と崇高さの混濁に執着したか、正確にいえば、憧憬を強く抱いていたかを知る人は少ないだろう。

演劇的にであれ、民俗学的にであれ、あるいは、哲学、宗教学、脳科学、生物学、運動生理学的にであれ、伝統や文化といったものへの探求は、身体性を通して、自分たちは何者であるかを問い直す作業だ。

地方文化の集積と洗練化が国、世界の文化をつくるように、土俗的、通俗的な習慣、慣習、それらがつくる社会通念といったものが、国、世界の様々な生活文化の基準にまで深く関与している。

言い換えれば、地方の土俗性が生み出す粗削りながら力強い確信に満ちた文化の発信がなければ、そして、その継続と維持がなければ、国、世界の基準を支えるものが揺らぎ、文化の停滞、引いては、国の疲弊を生むことにつながる。

流動性を生きないと決意したものたちにだけ与えられる、この確信が失われれば、地方の溶解が始まり、ついには、基準とすべき拠り所、根拠は失われ、自分たちは何者でもない、何かという不透明性しか得られなくなる。

自分たちの足元を見直していけば、窮屈さや優位さを含め、地方の何たるかがわかり、都市の何たるかが見えてくる。

その先には、この国の何たるか、世界の何たるかが見えてくるはずだ…三島はそう考えた。ゆえに、地方の文化、身体性にこだわり、性的で、通俗的、土俗的なものを突破する先に見える、崇高なものの屹立を夢想したのだ。

だから、三島は性を描いた。それも実に二次元的に。

生来、人間の営みとしてあり、業ともなる性なるものは通俗でありながら、性愛という言葉があるように、愛という掴みどころも、確かさもない、ゆえに、崇高なものとつながっている。それを相対化させ、より鮮明にするために、あえて二次元の表層として描いた。

愛を描くのではなく、葛藤を。憎悪を。愛を信じるのではなく、切りさいなむ。それでもなお、性でつながり、だが、通俗な単なる淫欲に終わらないものにこそ、美があると三島は信じたからだ。

ぼくらの時代は、この通俗と崇高の混濁が生む世界をよしとしない文化をつくってきた。通俗と崇高とに整理し、整理するだけでなく、通俗的なるものを猥雑なもの、余剰なものとして、葬ってきたのだ。

あるいは、通俗を消費社会に取り込んできた。それを文化の多様性という人もいる。

だが、それによって運ばれてきたのは、ますます深まった自己の不透明性だ。

ぼくはいま、二つの書籍の企画出版に挑戦している。自らの不透明性ゆえに、限りなく承認欲求が高くなったこの社会、世界で、そこでの<もがき方のヒント>となればと考えてのことだ。