ぼくはいつも風を感じる、風のように生きていたいと思う。
一つ所に留まらず、変化を恐れず、だれかの尺度や世間の下世話な噂さ、他人の評価ではなく、自分の納得する生き方を自分の手で拓いて生きるためだ。
「いい歳なのに、子どもみたい!」とよく人に言われる。子どもみたいで何が悪いと、その度にぼくは思う。
風を感じる。風のように自由に生きる。それが子ども染みているというなら、風を感じることも、風になることもできない大人とは、なんという俗物で、つまらない人間たちだろう。
風は気ままだ。
そのとき、折々に吹く風に違いがある。方向も同じじゃない。激昂したように吹き荒ぶこともあれば、癒すようにやさしく撫でることもある。
いろいろな風があるけれど、風がある風景とそこにあるいのちの景色に身を置くと、言葉や表象ではなく、物事の本質を透かして見せてくれるようにぼくは感じる。
思春期の頃から、内実がないのに落ち着き払って、世界のすべてを知っているかのような顔をしている大人たちが大嫌いだった。ほぼ、論理的にいっても彼らの言い分や考え方の大半が現実認識を誤っていたし、ぼくよりは明らかに無知だった。
社会の現実に迎合して改革しようという意志のない人間たちばかりだったからだ。あるいは、そういう振りをしているだけで、改革の何たるかを知らない連中がほとんどだった。
だから、彼らの理想のない、形而下ばかりで通俗な話は退屈極まりなかったし、やってる気満載だが、実のない行動もかっこいいとは思えなかった。
風を感じないのだ。変化や新しさがないのだ。物事を創造する手際の良さがないのだ。
自分が大人と言われる世代になったとき、決して、ああいう風にはなるまいと、誰に言われたのでもなく、心に誓って来た。
経験値やそこから導かれる社会との付き合い方、世の中をうまく生きるための処世術には長けていても、人生の道しるべや知性の鏡となるような人間はごくわずかしかいなった。
世阿弥の花伝書に「初心忘るべからず」という有名な言葉がある。
若い世代の人生の節目に贈る言葉としてよく間違って使われているが、これは若い世代に向けた言葉ではない。それなりに立場を得た人間、熟練した大人への諫めとして書かれた言葉だ。
つまり、子どもの頃の未熟さ、それゆえの過ち、恥ずかしさ、それに倍する一途さ、一途さえゆえの激しさ、その背後にある清廉さ、よりよくあらんとする気持ちが生む内なる葛藤(技芸の鍛錬)と他者(相手役や観客)とのせめぎ合いをいつも忘れるなということなのだ。
それを失くしたとき、成長は止まり、道は閉ざされ、未来はなくなるという諫めだ。
コロナの感染拡大対策で当てにならない治世者たちの姿に、多くの国民が愕然とし、落胆し、失望している。
やってる感ばかりを演出し、逆に現場を混乱させている者。方針やビジョンもなく、行き当たりばったりの政策を出しながら、その実、政治力学ばかりに目がいっている者。既得権益や利権を守ろうと国民生活には目もくれない者…。
そのだれもが、わかったような顔をして、わかったようなことを口にする。自分たちの発言と行動に落ち度は微塵もないように。不足はないかのように。無知なまま。
彼らには、風がない。風を知らないか、風を忘れた大人たちだ。いつか、彼らは、その風に吹き飛ばされていくだろう。
It ain’t what you don’t know that gets you into trouble.
It’s what you know for sure that just ain’t so.
Murk Twain
やっかいなのは 知らないことじゃない。
知らないのに 知っていると思い込むことだ。