秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

いいのかい、それで?

自由ってなんだろう。ぼくは子どもの頃から、そればかりを考え続けてきたような気がする。

もちろん。子どものときに、法制度や社会制度と照らしてそれを考えていたわけではない。

でもね。自分が自分であることを生きたい。自分が自分であるためにこうありたい。そう思う気持ち、そう願う思いは、子どもの頃からだれにもあると思うんだ。いや、子どもの時の方が、大人よりずっと強い。

そうした自分であろうとするとき、きっとそこには、そうであってはならない、そうあるべきではないという何かの規制や壁、障害がある。他人に違和感を抱かせ、それはおかしいという人が現れる。

みんなもきっと多かれ少なかれ、そんな体験があるはずだ。

思春期や青年期には、その「あってはならない」「あるべきではない」という規制に反発したり、壁や障害にぶつかって、傷ついたり、場合によって、あきらめたり、そうした壁や障害を生み出す制度や組織に、やむなく従ってきたはずだ。

自分自身の内発的、自発的な動機や理由、自覚や納得からではなく、自分を縛る何かに従わされる。やむなく、従う…。でも、それが納得できないなら、縛っている何かと向き合い、議論し、場合によって、闘わなくてはいけなくなる。

いかに稚拙でも、いかに愚かしいといわれても、それをしないと自分が自分であることはできなくなるんじゃないだろうか。

闘うというのは、決して暴力とかじゃない。ときには、暴力に暴力で対応することもあるかもしれない。だけど、暴力に頼らなくても、同じ意識を持つだれかと連帯する、協働する。共に闘う人間がいれば、それはできる。

じつは、自由とは何かと考えるとき、そこにしか、自由の本当の問いと答えが浮かび上がって来ない。

みんなの中には、そんなことはない。自分はずっと自由を保障されてきた。自分の自由が侵害されたことも、侵犯されたこともないという人もいるかもしれない。

だけど、それは、きっと、きみたちがじつは、社会と何ひとつ向き合ってないからかもしれないんだよ。社会というものを知ろう、学ぼうとしていないかもしれないよ。

自分の知る、わずかに目に見える社会だけに寄り添い、多くの人にとっての社会とは何か、そこで求められる自由は何かを問おうとしていないかもしれない。より広い世界を知ろうとしていないだけかもしれなんだ。

自分から行動し、何かを作り出そう。何かこれまでと違う新しいことを始めよう。そうした志を持ち、始めようとすれば、必ず、自分が求める自由とそれを阻むものとぶつかる。でも、それをしない人は、世の中にどれほど、人の自由を縛るものが多いか、それに気づけない。

たくさんの人たちが、そのために、制度や組織、権力と立ち向かい、変えてきた。変えることで、少しずつ自由を広げてきたんだ。

いまある自由がいかに貴重で、希少で、そして、壊れやすいものか、奪われやすいものか…。自分で自分の自由をえるために、なにかにぶつからないとそれはわらかない。

わからないどころか、その自由を自分から放棄する人も出てくる。自分の自由を放棄するだけならいいけど、他者の自由を奪うという形で、結果的に自分の自由をも放棄する人たちが出てくる。

自由とは、多様性なんだ。あらゆる人にそれぞれの自由がある。それぞれが求める自由がある。それを最大限保障する社会、国が自由な国家といえるんだ。

ぼくらの自由はなにひとつ、ぼくら自身で勝ち獲ったものじゃない。だけど、それがわからないと、きっとぼくらは知らないうちに、ぼくらが当たり前だと思っている自由を不自由に変える。

そんな足音がもう、はっきり聞こえているよ。いいのかい。それで?