秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

オレはオレ 私は私

オレはオレだから…。私は私よ。人は、それをしばしば、生き方の流儀や作法と勘違いをする。

だが、やさしい見方をしてあげれば、人が他者ではなく、そう自分に強く軸足を起き、オレ、私を押し通そうとするのは、受け入れてくれよ…とか、いまの私をそのまま受け止めてよ…というself-esteem、社会承認の強い欲求だともいえる。

これは、個人ばかりでなく、いま集団としても、ミクロからマクロまで広がりを示している。

本来、人の生き方や考え方の流儀、作法というのは、自分のためのそれではなく、他者や周囲のためにどう自分が人としての社会的役割、使命を生きるべきか、あるいは、自分が目指す、生き方の質を問われたとき、他者に納得できる根拠として、言動やあり方、場合によって理論や技術ではっきり、それと示せるもののはずだ。

やみくもに、ただ自分を受け入れて当然だろうというものではない。他者を納得させる、一定の普遍性がいる。

ぼくらは、SNSによって、特別なだれかであるとか、プロとしての自己表現の手段や社会から評価されるような専門的知識、経験、能力を持たなくても、自分や集団を他者にアピールできるようになった。

生活の現実としてある、公式の場、公的な時と空間では、表すことが躊躇された自己主張や使うことを許さなかった言葉をSNSでは発信でき、また、現実生活でつるむことのできない人でも、不特定多数の海に石を投げれば、つながることができるようになったのだ。

自撮りに象徴されるように、オレはオレだから、私はこうだから、ああだからをSNSの海に投げ、自分に集合させることも、そこで、自分たちにだけに通じる理屈や共有できる言葉で承認の世界をつくることも容易になった。

本来、広がり、開くはずのSNSというツールは同時に、狭める、閉じる、排除するツールとしても宿命的に機能してしまう。

本来なら、宗教が公式な場、公的な時空で届けられない主張や言葉を受け止め、スポイルやスティグマされてしまう、人々の承認されない心の空洞の救済となるはずのものだ。だが、宗教の力が弱くなり、いまはそれをSNSが代行し始めている。

アメリカでは、ロシアコネクションの審議が本格化しそうになった前日に、その調査のトップにいたFBI長官が大統領によって、突然更迭された。それに付随して、マスコミ、調査機関、司法に大統領がツイッターで圧力をかけ、大問題となっている。

ぼくは、トランプ氏が大統領になったとき、まるで新しいカルト宗教がアメリカに誕生したような感覚に襲われた。しかも、そのツールはSNSだった。

社会承認を得られない人、もっと得たいという欲求を持ち続け、沸点にいた人…。彼らを集合できたのは、また、トランプ大統領自身が社会承認に飢えていたからだ。

ミクロからマクロまで…。それは決して、国際政治や国内政治という遠い問題としてだけではなく、ぼくらの満たされない現実生活の空洞の穴埋め、代替えとして機能している。

いや、ミクロにそれがあるから、社会、国、世界のあちこちで、それまで良識として踏み留まらせていた、ありえないことが、あって当然のこととして上書きされ、ぼくらの暮らしに広がっている。

ぼくもSNSを使い、そこで人と集合し、いろいろなことをやっているし、交流やつながりを意図してつくろうとしている。だが、常にあるのは、閉じないこと、自分たちだけの言葉や理屈を持たないことだ。そのためには、社会的であること。

SNSという言葉が示すように、社会的ななにかにフックしないと、いまいったような現実の穴埋め、同調者だけの閉じた世界、そして危うい宗教的集合につながる危険があると考えているからだ。

オレはオレだから、とか、私はこうだから、これでいいでしょ…。それもいい。ぼくも良識、常識ばかりの世界は好きじゃない。

だが、それを当然としていては、ぼくらは流儀や作法と出会うことも、それがあることでえられる誇りも、次のだれかに語るなにかも、持ちえない。