秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

デクノボーになれないデクノボー

この世に生まれてきて、自分が生きたという印がほしい。証を持ちたい。それを知る人、認める人がいてほしい。できれば、たくさん…。

 

人は生まれながらにして、自己承認の欲求を持っている。

 

それは、乳飲み子や幼児がそうであるように、生存のためであり、思春期の子どもが親や教師、周囲の大人たち以上に、同性、異性から認められ、仲間として受け入れてもらえないと学校生活もままならないように。

 

社会に出て、自分の仕事や能力が評価されないと愚痴をこぼしたり、落胆したり、焦ったり、恨んだり、明日への希望を失くすように。


だから、人はいろいろなことをやる。いろいろやる中で、失敗し、挫折し、傷つく。他者や組織、世間の評価を得るのは、容易いようで、じつは、難しい。

 

かつてのように、人と人のつながりが深く、生活の場も情報も限られた世界では、狭い関係性やエリア内でそれが満たされることもあったが、いまはそうはいかない。情報化の中で、自分が思うように、自分という人間を認め、受け入れてくれる場や機会は多いようで、世界が広大過ぎるがゆえに難しいのだ。


その中で承認の感触を得るには、情報化社会に対応するリテラシーやそれに適応するコミュニケーション能力、知恵がないと、簡単ではない。


かといって、そうした能力はだれにでもあるわけではない。しかし、じっとしていてもそれは向こうからはやって来ない。そこで、大きく分けると二つのどちらかを人は選択する。している。


ひとつは、失敗や挫折の傷をひたかくしにし、笑顔で元気で明るい姿を代替えにして、場合によって男女を問わず、外見や容姿、性的なもの、お笑い芸とかいったものを使い、違う形で承認をもらい、自分の居場所を得る。

 

もうひとつは、自分と同類、あるいは従う者たち、つまり取り巻きをつくり、リテラシーやコミュニケーション能力の欠如をうまくごまかし、要領よく、らしきもの、のようなものとして居場所をつくることだ。

場合によって、そこには、物、金、地位、名誉、社会的な肩書といったものをばら撒き、取り巻き集団からさらにその取り巻き集団へと、承認される世界を拡大していく。


だが、いずれも底が浅い。

やっているうちに学び、身に付け、いわゆる知的にも向上していけばいいのだけれど、そもそも学ぶことがいや、苦手、学を楽しむ、学で苦しむということをメゲずにやることができないと、底の浅いまま、やたらあれこれ手を出し、弄り回し、余計なことをやらかしてしまう。

あたかも、いろいろやっていることそれ自体で承認を得られるかのように。つまり、小さな親切、大きなお世話をやらかす。だが、大きなお世話、やらかしていることの無為無策に気づけない。


宮沢賢治の『雨ニモ負ケズ』の詩に、デクノボーという言葉がある。何の役にも立たない人形のような存在、「木偶の坊」と書く。

無為無策で、他者にも、世間にも、社会にも、国家にも役に立たない、存在意義のない存在。だが、それでいながら、賢治のいうデクノボーは、正直で、憎めない。

 

東奔西走して、人々の役に立とうとしながら、何もできず、救うこともできないのだが、寄り添い、言葉をかけるだけで、余計なことをしない。小さな親切 大きなお世話はやらない。なぜなら、自分を知っているからだ。そして、世間に認められたいとか、名声を得たいとか、金持ちになりたいとか思っていないからだ。

とかくに、承認欲求の強い人ほど、世間の眼や周囲の評判、噂といったものを気にかける。気の毒なくらいだ。だが、その結果、他者からの承認の前提となる、「自分」を築けない。判断もできなければ、決断もない。風に左右され、時々の流れに竿刺される。


つまり、言葉通り、文字通りの木偶の坊。賢治のいう、デクノボーになれず、かえって、世間、社会、世界をガタガタにさせてしまう。


今日、その典型的な人物が、2か月以上ぶりに記者会見をするらしい。無為無策であれば、まだ許せるだろう。

しかし、この国の首相がやってきたことは、知性のない人間ばかりを取り巻きにし、そこで得られた承認をすべてとして、ぼくらの生活をひっかき回し、法制度そのものを裏切り、刑事罰当然の案件をスルーし、歪曲し、国民の血税無為無策のために世界に無断でばら撒いてきた人間だ。

だが、こうした人間が首相でいられて来たのも、一重に、ぼくら国民が承認病にかかって、世間の風だけで生きているからだ。