秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

一瞬の恋と犯罪

社会に自分の存在を示したい。他者に自分を認められ、評価されたい。

 

その願望は決して悪いことでも、恥ずかしいことでもないだろう。マザー・テレサが言うように、「人は貧しいからではなく、貧しいがゆえに、自分が社会からまったく必要とされていない。」そう感じるときに、切実に苦しみ、嘆くのだ。

 

承認の欲求は、あらゆる生命体に共通で、普遍の、種の存続という生物学的なそれだけでなく、いのちあることの充足感、安心感、幸福感といったもののと切り離せない。

 

満ち足りた感覚は、自己完結した個の世界では実現しようがない。他者という存在があって初めて成立する。かつ、他者といっても、自分という存在を損得や善悪、正誤の基準からではなく、丸ごと受け入れられ、同時に、近しくあっても敬意を持って、受け入れることができる存在としての、他者があってのことだ。

 

愛や恋愛関係が成立していなくても、セックスが成立するのは、生理的欲求であると同時に、この承認を便宜的に、かつじつに簡単に、代替えできるからだ。

不幸なことに、一瞬でも人は丸ごと受けられる肉体的安堵感に包まれたいと願う。手間暇のかかる面倒な恋という名の人間関係さえ抑止でき、無化できれば。

 

つまりは、社会、他者の視線から社会的動物である人間は自由になれないし、そのストレスと常に同伴し続けることが、生きるということだと言ってもいい。

しかし、残念ながら、世界的にも国内の実状から言っても、ぼくらの社会は、これをストレスフリーにする方向ではなく、より強める方角にしか進んでいない。地球環境しかり、競争原理にもどづく新自由主義しかり、それらの根源にある格差しかり。夫婦別姓への古典的な否定しかり。


生き方の多様性がもたらす、大衆から分衆、さらには孤衆へと、人が分断される時代に、そこに経済格差が追い打ちをかけたことで、個々のコミュニケ―ションストレスは、倍加している。

 

他者と醸成される信頼や愛、つながりといったものへの不信感の増大はこれに比例しているのだ。いうまでもなく、コロナ禍はそれをさらに前進させた。

家庭でも、地域でも、学校でも、勤め先でも、仲間内でも、そこに孤独はある。だが、まったく承認の希望がない孤独ほど、みじめなものはないだろう。

だが、このみじめさは、見栄や体裁、社会性という名のもとに、社会的無害な人間であろうと装い、内閉化されてしまう。そして、心の闇の中で、それは沸々と発酵し、やがて憎悪として爆発する。

簡単なことでキレる、アルコール依存による暴言、家庭内暴力性的虐待自傷とったものもやっかいだが、根源は自分という存在を他者に刻印するための承認欲求の行為という点で等しい。

 

ある日、普段の日常の延長のようにして、犯罪を行う。動機なき殺傷事件と言われるものも、実は、概そのような背景を持ち、それゆえに、多くの人々を巻き込む劇場型になる。

1998年神戸児童連続殺傷事件「酒鬼薔薇事件」が起きたとき、家庭、地域、社会、教育、国のあり方を変えない限り、これは再発するとぼくら(秀嶋と宮台真司斎藤環尾木直樹各氏)は警鐘を鳴らした。

社会へのテロと明確に意識していた酒鬼薔薇から、ますます透明性を増し、動機や必然性のない「殺すのはだれでもよかった」とする劇場型の殺傷事件が増大すると警鐘を鳴らしたのだ。その後、コピーキャットを含め、すぐにぼくらの危惧は現実になった。

京王線の無差別傷害事件。

小田急線での事件の模倣犯とみられているが、容疑者本人が明確に意識していないにかかわらず、衆議院総選挙投開票当日、ハロウィーン、コロナ感染の収縮の時期に、実行したことには、対他者、対社会に対する満たされない承認と憎悪が沈殿していただろうことは想像に難くない。

言葉があれば、人は別の形で否定を発露(表現)できる。言葉があることで体系と理論が持てれば、犯罪行動ではなく、違う形での行動へ転嫁できる。だが、格差によって生じ、深刻化している、人によって与えられる教育の落差と差異は、ドグマを内閉させ、爆発させる力にしか働かない。

ぼくらの世界、国、社会は、この20年程の間に、透明な膜の内側にいられる人間とそうではない人間の峻別を加速させてきた。それが限りなく透明であるがゆえに、自分がはじき出されていることをすぐに気づけないように、隔てて来た。

美しい顔をして、人を峻別する。従順なものには手を差し伸べ、そうでないものには自己責任を押し付け、地域や社会、行政、国政の責任はないものとして来た。逆らうもの、否定を突き付けるものは、社会から削除して来た。その姿は、国民に刷り込まれ、同調圧力として堅牢に共有されている。

防犯対策や刑事罰のあり方を考える前に、この国の、世界の、増産し続ける憎悪の海の根源にあるもの、それを生んでる社会、世界の実態と本質が何なのか。

そこから始めなければ、あらゆる地球的課題も世界的格差の問題も、家庭、地域、社会にある膿も、その姿を現さず、一瞬の恋と犯罪が人々の承認の代替えとして、憎悪の海に存在し続けることになるだろう