秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

はぶかれるのがこわいチキンハートの国

自分の弱さや弱みをさらけ出すというのは容易なことじゃない。この世の中の多くの過ちや間違いといったものは、大方、それに起因していると思う。

体面や面子、体裁といったものの背後にあるのは、それだし、虚勢や虚言といったものもそれに起因している。

自分の弱さや弱みを突いてくるものに、途轍もなく不寛容で、冷淡に、あるいは、激しく感情をぶつけるのも、排除するのも多くの場合、それによっている。

ただ、それだけならまだ人の弱さのあり方として見逃すことができる。

弱さ、弱みを隠すために、さもそうではないように、言葉を弄したり、弄したために、辻褄合わせの改ざんや隠ぺいをやり、それがなかったかのように、口裏合わせや力を乱用して発言や反論を封じ込めるとなると、話は別だ。

都合のいい議事運営や法解釈、法案の可決。裏側にある利権や利益相反のチェックもなく、マスコミ、ジャーナリズムを黙らせ、するするとすべてが政権の思うがままに運んでいる。

この途方もなく、危うい状況が、この数年、平然とまかり通り、これに異議を唱える人間が権力の中枢にも、これを検証する側にも希少となっている。

チキンという単語が「弱虫」を意味するということを、ぼくは中高生のときにリバイバル上映で観た、映画『理由なき反抗』や『ウェストサイドストーリー』で知った。

間違いと分かり、おかしいと気づきながら、それに従おう。従ってさえいれば、身の安全は確保できる。社会からはぶかれることはない。得になることがある…。

政治的要因が生む、不条理や不合理、人権の蹂躙には目をつぶり、社会生活にある、格差や貧困、差別や偏見も当事者の問題としてその事実から目を背ける。明日は我が身とならないため集団への帰属と貢献をひたすら従順に果たし、矛盾には切り込まない…。

日本には、「ノミの心臓」という言葉はあるが、英語のchicken heartに当たる言葉がないのかもしれない。弱虫は弱虫でも、省かれるのをこわがって、弱虫たちが弱虫たちの中で権力だけ持っている人間に無批判でなびいても、それを否定する言葉が日本語にはないのだろう。

少なくとも、似た状況にあるアメリカでは、果敢にジャーナリズムが闘っている。権力の中でも反対勢力が立ち向かい続けている。

自分たちがchicken heartと市民、大衆から、いや、後の歴史を生きる者たちから批判されないために。chicken heartには、弱虫だけではない、恥を知れという意味が込められているからだ。