秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

化粧

言葉や行動というのは、人の真実を現わすわけではい。
 
とはわかっていても、よすがとなるのは、とりあえず、言葉や行動しかないから、人はそれを手掛かりとするしかない。
 
そして、できれば、人を信じたいから…。あるいは、ひとつの言葉や行動が次の期待する言葉や行動につながっていってほしいという願望があるから…。真実ではない、それを人は、一層信じたくなる。
 
そうした人の心の弱さにつけいるような意図した計算や演出が私はキライだ。

あるいは、意図や計算はなかったとしても、無意識であれ、そうやって発せられる言葉や行動がキライだ。どこかで、人の気持ちや期待をつなごうとしている…そう思えるからだ。
 
人の曖昧さや弱さを否定はしない。だが、それが他者の心の弱さを当てにしたものではいけない。結果的に、それに翻弄される心やさしき人たちがいるからだ。

また、逆をいえば、真実のない言葉や行動に、自覚的であれ、そうでないにせよ、そこになにがしかの期待や願望を抱き、結果的に翻弄されるのは、その人たちの心の弱さであり、真実を見る眼がないからだ。

この人の弱さと弱さが生む谷間。じつは、そこに、詐欺もあれば、ストーカー、DV、セクハラ、虐待、ひきこもり、いじめ、不登校…いわゆる、コミュケーション不全社会が生まれている。

長く、こうした問題を扱った作品をつくり、教育問題にかかわってきて、気づいたことがある。いまという時代が未来への期待、それも具体的なそれを描くことが難しくなかったからではないかということだ。

未来への期待がひとつの幻想とするなら、その幻想を描けない分、いまという時間の空虚感を逃れるために、弱さと弱さの谷間のスペースに、期待と願望という幻想が生まれている。

歪な期待と願望がつくる歪な幻想。到底、人を勇気づけるそれとは違う。
 
だが、それもで、そうしたものがないと現実の空虚感を人は埋められない。また、それに気づくことは、そこにある空虚感や不毛から逃れられなくなる。そのために、人は化粧をする。
 
互いが真実ではない、化粧をほどこし、また、真実のようにみえる化粧を厚く塗り、弱さと弱さの谷間を化粧で埋めようとする。

いまを生きていく自分の時間に精一杯で、次第に厚くなる互いの化粧に気づけない。いまは、そういう時代かもしれない。
 
ラ・マンチャの男」は、だから、風車に向って突き進むしかないw