秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

茶番劇と茶菓子

茶番劇という言葉がある。日本では、歌舞伎から生まれた言葉だ。

下働きの未熟な役者は、楽屋で上位の役者たちにお茶の給仕をするのが常だった。つまり、お茶の係、茶番が楽屋でのもっぱらの仕事。

舞台での出番がないので、上位の役者たちが楽屋を出ていってしまうとやることがない。そこで、下手な即興芝居をやって茶番の仲間内で戯言のようにして遊んでいた。そのうち、開幕前や幕間のつなぎに、客の前でも出たとこ勝負の即席でやるようになる。大方、芝居の師匠に勉強させてくださいと懇願でもしたのだろう。

だが、素人同然だし、出たとこ勝負だから何の計画も設計もない。芝居は当然、下手でどうしようようもない。芝居が下手だけでなく、即興劇自体が内容もなければ、芝居の落ちまですぐに見え透いてしまう駄作。とても見るに堪えないというので、だれも見向きもしない。最初っからネタバレの漫才やコントのようなものだった。見え透いている上に、技量も工夫もないから、飽きられる。

そこで、茶番の得意を生かして、楽屋で余った茶菓子を即興の終わりに無料で配るようになる。つまらないが、菓子がもらえるならと、これに付き合う客もいたが、茶菓子をもらうだけのこと。


それが転じて、見え透いて下手くそなウソやバカバカしい行動を奏して茶番劇というようになった。

この国は、この30年というもの、自公政権の茶番劇を見させられ続けている。

とりわけ、安倍政権は、反共、反社で世界のっとりをたくらむ旧統一教会と岸以来の密接なつながりを持ち、国益を売り飛ばして来た。

しかも、政権の汚れ仕事、それは選挙動員だけでなく、目障りな人間や政権を批判する人間、政権や議員の機密や陰謀を知る人間を恫喝や暴力の脅威、社会からの排除といった恐怖に陥れる役割りまでやらせていたのではないかという疑念まで裏コミではもたれている。実際、マスコミやジャーナリズムへの旧統一教会の抗議は、ほぼ恫喝だ。これは、これまで安倍政権が堂々とやってきたこと。

それゆえに、宗教法人格の剥奪や解散命令が出せない。旧統一教会の悪知恵は、政権や議員個人の表に出せない情報を握ることで、政権や議員を支配することだ。これは彼らの信者獲得法とまるっきり同じ。そのためには、汚れ役であろうが、刑法罰に問われようが平気でやる。

目的は国家ののっとりであり、世界支配だから、人々の生活困窮や破壊、いのちの重さは重要ではない。目的のためには、手段を選ばない。これも安倍政権の政治手法と同じ。

だが、この茶番劇が成立したのは、終わりに菓子が配られ、それほしさにこれに付き合う客=安倍政権支持者がいたからだ。

山上容疑者の犯行で白日になりながら、安倍と旧統一教会の関係を追求しない。安倍がキーマンであったことは政権もわかっていながら、麻生の恫喝で、国民の合意なし、国会審議なしで、国葬をやる。

安倍国葬で利するのは、国家でも、国民でもなく、旧統一教会。安倍国葬は=旧統一教会の権威保持になり、2世3世への被害ばかりか、新たな被害拡大を生む。

麻生を含め、こうしたことが自公政権でなんのてらいもなくできるのは、弱みと同時に、菓子さえ配れば客は茶番劇に付き合ってくれるとタカをくくっているから。つまり、投票にいかない半数の国民は政権では、国民の数に入っていないのだ。

茶菓子(利権)に群がる、固定票があれば、安泰で、投票にいかない国民の中から反旗を挙げる人間が出たら、またぞろ旧統一教会など反社に圧力をかけさせればいいと考えているからだ。旧統一教会も政権コントロールを手放す気などさらさらないから、のっとりのためには、闇でますます力を貸すだろう。

しかし、これほど見え透いた猿芝居、茶番劇を前に、マスコミもジャーナリズムも新聞も深く切り込む声を上げない。ごく一部のマイナーといわれるジャーナリズムだけ。

逆に、政権が数にいれてない国民の方が、自公の実態、国葬の実態、引いては、東京オリパラの実態、モリカケや桜の実態を見透かしている。

だれも指摘しないが、山上容疑者は、恫喝好きの育ちの悪い麻生を筆頭に、政権が数にいれていなかった、その国民のひとりだったのだ。