秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

私たち市民だ

いま、日本の国土の50%強の地域が国の総人口の10%の定住者しかいない。
 
つまり、俗にいわれる過疎地であり、そのいくつかは限界集落となっているということだ。裏返せば、大都市とその周辺に人口が密集し、この国が歪な人口分布になっていることを示している。
 
当然ながら、そうなったのは、かつての若者たちや現在の若者の多くが進学や就職で都市へ向かい、そこに残った人々が少なく、また、そこへ戻った人々も少なかったということになる。
 
もっといえば、彼らをとどめられるものを地域は持たなかった。持てなかった。そして、持とうとしてこなかった。

よく考えてほしい。自分と同世代、もしくは近接する世代や下の世代がほとんどいない地域で、明確な目的意識や志がなければ、早々にそこに生きられるものではない。
 
高齢化と少子化がいわれて久しい。
 
だが、まったくといっていいほど、それに対してこの国の政治は無策であり続けている。さらに、10年も経たない内に、この高齢化した地域社会を支えてきた女性の数が激減すると予想されている。
 
少子化の上に、若い女性の都市への流出が劇的に増加しているからだ。地域に職の多様選択性がないこともある。しかも、都市での女性の結婚年齢は上昇している。その3分の1が貧困状態だといわれている。当然、少子化は一層進む。
 
かつて、経済の活力になると思われた流動性。それがいまや過剰流動性を引き起こし、人口分布の歪さに合わせて、産業においても、福祉においても、地域行政サービスにおいても、あらゆる生活分野における空洞化現象を引き起こしている。

人々の生活欲求の多様性と孤衆化(カスタマイズの閉じた世界の中で生活を成立させた人々の孤立した集合:秀嶋造語)が一層、そのスピードを速めている。
 
多様性といっても、結局のところ、生き方の価値の根本的な転換が進んでいないからだ。
 
これまで常識とされてきた、消費をよしとする生き方の価値感の転換だ。戦後、この国の生き方の基本にあったのは、生産ではなく、消費に多額の金を使えるようになることだった。
 
生産に励むのも、生産を発展させ、効率化を図るのも、結局は、そこで得た現金をより消費に向けるためだった。ところが、その延長に奇妙なことが起きてしまった。生産に励んでも、えられる現金が少なくなっていく現象だ。
 
そこで生産の取捨選択をやってしまう。より現金がえられ、しかも安定的にえらえる生産に人々がシフトしていった。そこに、一次、二次産業からの人々の離脱が生まれた。一次、二次産業の中でも、高付加価値を求めて生産の片寄が生まれる。
 
さらには、生産を放棄してでも、消費を得るための産業が勃興した。金融やIT市場だ。ことわっておくが、生産には、それを生み出す技術とその継承、伝承がいる。その技術すらも喪失し続けている。
 
これが、俗にいう成熟社会というものだ。
 
高度成長→消費社会→成熟社会は、政治制度に関係なく、経済優先国家のすべてが経験する。そして、最後に低成長期が必ず来る。合わせて、そこには人口減少も付いてくる。ある意味、資本主義、経済優先主義の限界点だ。
 
これをどう是正するか。次の道、資本主義経済でもなく、統制社会主義経済でもない、第三、第四の道の模索をいま、先駆けて成熟社会を迎えた欧米は取り組んでいる。

いま求められているのは、消費を少なくしても人々の生活が成り立つ、新しい経済のしくみであり、大量消費を前提とし、それを基盤とする大企業優先主義からの転換だ。グローバリゼーションという幻想からの解放だ。

当然、そこには、わずか70年にしかならない、これまでの消費優先社会やグロバリゼーションが永遠に続くと信じ、新しい経済システム、社会システムをよしとしない人々の激烈な抵抗と排除がある。また、この道しかないという諦めがある。
 
原発再稼働の攻防も、非正規を増大させる雇用制度改悪も、社会保険制度改悪や福祉切り捨ての政策も、行政改革や国会改革よりも増税を先行させる政策も、いま富を得ている人々、あるいは、これまでの消費優先社会で恩恵を受けている人々を基準に考えられ、制度化へ進んでいる。そのためには、諦めてくれる人が多いほど都合がいい。
 
経済的な豊かさの追求とその到達点には限界がある。すでに歴史が証明している。富の一極集中は、その後、これまでの成長期のように、決して予定調和的な再配分を生まない。いまの社会、国際社会がそれを示している。
 
自由主義という名の競争。マイケル・サンデルが指摘しているように、リベラリズム(自由市場主義社会)は決して、人々を幸せにしない。制度や政策が介入し、個人の営利活動より公共の福利や公的営利を優先する方向に強制力を持って、転じさせなくては、富の再配分も生れない時代に入っているのだ。

そうした時代に最大の問題は、国の政治をつかさどる政治屋や経済屋に、まったく、この社会的現実が見えていないことだ。本来、国民ひとりひとりのいまと未来を牽引すべき、あるべき政治家や経済人がいない。
 
消費に依存せず、連帯と協調によって、生産を分かち合い、そのための技術を継承し、改良する。大量消費の基本にある貨幣優先経済から、生産を分かち合うことで必要最小限の消費に換える。
 
すぐにバラダイスはえられない。だが、そこへ向けて舵を切り、試行錯誤と議論を重ね、さらに思考し、創意工夫し、新しい価値への転換に挑戦する意味と意義は必ずある。
 
だが、その趨勢にいち早く気づき、そこへとMOVEできるのは、政治屋や経済屋でも、行政でもない。私たち、市民だ。