秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

コントロールされるリテラシー

情報の管理と統制…そうした言葉は、社会主義圏や共産主義圏、あるいは独裁政権下のことだと多くの人々が思っている。

しかし、超高度情報化社会にあっては、情報を提供する側、情報のプラットホームを提供する側は、ほぼ自動的に情報の管理と統制ができるしくみを持っている。
 
子どもが容易にインターネットにアクセスできるという時代の到来とともに、悪しき情報にアクセスできないようにするフィルタリングが登場したり、ゾーニングという囲い込みによって、子どもの有害情報へのアクセスを防止する対策がとられてきた。
 
それは逆をいえば、情報へのアクセスの足跡と個々人がどのようなアクセス傾向を持つかもネットワークのインサイト情報をコントロールする側には読まれているということでもある。
 
暴力的な言葉や性的な言葉のある言葉をはねる、はぶくというロボット検索機能もそうしたもののひとつ。ネットワークやインターネットのリテラシーを保つという名のもとに、しかし、実は、それ自体が情報管理であり、統制なのだ。
 
人々がここちよい情報社会にいられるように…という心優しきサービスが、こうした側面を持ち、そのことのよって、人間社会にある、理不尽さや不条理の現実がないかのような建前の世界をつくっていく。

たとえば、ある映画や小説があって、そのすばらしさを他者伝えようとするとき、その作品が人間の性や邪さ、狡猾さを通じて、人間のすばらしさ、尊さを訴えようとしている作品だったらどうだろう。
 
人間のすばらさしさ、尊厳を語るばかりでは、その作品の凄さ、素晴らしさは伝わらない。その前提としてある、あるいは作品のしかけとしてある悪しき世界を語らずして、それを伝えることは不可能といっていい。
 
だが、これを現在のような情報管理と統制の網にかけると、すべからくはじかれ、はぶかれるということが起きる。不特定多数のだれが見るか、読むかわからない…だから、事前にはぶく…
 
これは明かに、極めて稚拙で幼稚な対策だ。ひとつのコメントに多様な反応があり、その反応によって、ひとつの言葉、考えを対象化していく。それが、人の持つリテラシーであり、その中でこそ、何が正しく、何が悪しきものかの本当の意味での選別が可能になる。

性や暴力の問題と向き合えないこうした世界は、人を弱くする。何事かを読む込む力も弱くする。きれいな、お行儀のいい世界で純粋培養されたような、実に気持ちの悪い、人の生きられない世界が、現実世界に広がっていく。それこそれが、リテラシー不在の世界なのだ。

リテラシーは規制ではなく、多様な学習の中で初めて育つ。