秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

仮説の証明

人というものの謎を解く。それがぼくらの仕事だ。

だが、人というのもの謎など解けるものではない。なのに、解けない謎に果敢に取り組み続ける。徒労ともいえるその命題から逃れられない。それがぼくらの仕事の姿だ。

仮説に基き、一定の答えを探り当てたとしても、必ずそにには、「そうではない」別の影が付きまとう。影がよぎる。そこでまた仮説を見直す。それがぼくらの仕事のやりきれなさだ。

亡くなった物理学の英才ではないが、宇宙は美しい数式でできているという仮説への確信が、彼に限界を突きつけたように、ぼくらの仕事は、数式を割り出すだけではなく、その数式の、仮説の検証を実験によって証明しなくてはいけない。

仮に、そこで証明できなかったとしても、それが問題ではない。仮説に固執するのではなく、実験によってもたらされた失敗や敗北から仮説を修正、変更、成長させることなのだ。

ぼくはそれを演劇で学んだ。いや、演劇そのものが仮説と実験、検証、そして仮説の連続なのだ。なぜなら、そこにあるのは生身の俳優の身体性であり、舞台という同時間性の空間の中で、時間と記憶を操り、謀る芸術だから。

演劇で解答は数式の姿では表れて来ない。だが、身体や空間、時間といった言語化できないもので数式を浮かび上がらせる。

それが仮説を証明するとき、人は、感動や共感を言葉ではなく、体感として獲得する。そう。それは作り手から与えられるのではなく、観客、あるいは視聴自ら獲得するのだ。

与える演劇、与える映画には、それがない。それができない。仮説と実験、検証の振り子を内包する演劇、映画にはそれができる。

観客、視聴者にそれを通して、人とはなにか、世界とはなにかを自ら想起させるからだ。

いまこの国の演劇や映画が弱いのは、ぼくらの国からこの仮説、実験、検証の振り子が奪わているからではないかとぼくは思う。

仮説をいうことが、はばかられ、検証する能力が失われ、実験もなく、荒唐無稽な数式が正しいもののように流布される。表層的な表現や芝居じみた言葉が感動や共感になる…

それでは、人の生活すらも見えなくなって不思議はない。人というものの謎に向き合う姿勢がなければ、人の生活も見えてはこない。