秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

あなたなんか、大嫌い!

社会に無関心であろうと、政治に興味がなかろうと、世界情勢と無縁だと思っていようと、人はそれらと無関係でいることはできない。

ごくありふれたぼくらの日常も、それらと関係なく存在するのではない。興味のあるなしや関係性の自覚・無自覚とは無縁に、ぼくらの日常はそうしたものに絡め取られているし、逃れることはできないのだ。その無数の積み重ねの上に歴史がつくられているに過ぎない。

ぼくが演劇を始めた15歳の頃から、常に意識させられたのはそのことだった。とりわけ、人間の身体性を表現の術とする演劇において、人間の生理としてある言葉の矛盾、所作の矛盾をどう表象するかは大きな課題としてあった。

たとえていえば、「あなたなんか、大嫌い!」と叫びながら、そこに内在するエロスをどう観客に提示するかの問いだ。リアリズム演劇のくだらなさは、これをすべて個人史に帰結させるところにあった。もっといえば、体験主義や経験主義に落とし込んでしまうところだ。

個人史やだれかの体験、経験という軽薄な類型にしてしまうことで制作者も俳優も、そして観客もひとまず安心する。だが、そこには、リアルは浮上しない。演劇におけるリアルとは、人間の生理における普遍的な何かにたどり着くことだ。疑念と問いを重ねないと、その何かには到達できない。でなければ、ギリシャ悲劇も、シェークスピアもいまに現前化などできない。

だが、この身体表現は、現実的であるか=普遍的であるかの尺度は、実は、演劇そのものの世界にはない。あるのは、いまを生きる俳優の身体性やそれを形づくっている暮らしや社会、国、世界の方だ。

シェークスピアにせよ、近松にせよ、イプセンチェーホフにせよ、ベケットにおいても、人間の根源にある自己矛盾や葛藤、愛憎、恨みつらみや嫉妬心、虚栄心といった人間の根源的にある生理を普遍的なものとして提示しているから今日まで生き延びている。それをさせているのは、折々にあった人間の生活様式(エトス)であり、それによって形づくられいる社会や国、世界のあり様だったのだ。

個人史や体験、経験主義に依存していては、それはできない。人の真実とは何かを問う先に、社会は、国は、世界は…という問いを持たない限り、リアルは浮上しない。戯曲の技も演出の巧みさも、すべてこれを浮上させられるかどうかにかかっている。

師と仰いでいる渡辺保先生もだが、鈴木忠志氏はわが意を得たりを20歳の頃に与えてくれた演出家。そして、宮台真司氏と齋藤環氏も、演劇とは異なる世界の方ながら、同じようにわが意を証明してくれた先生たちであり、志を重ねる友である。

昨今、テレビ・映画がつまらないといわれる所以にはこれがある。ということを改めて整理させてもらった書籍と舞台。

舞台の方は、何十年かぶりに観た、劇団SCOT(旧早稲田小劇場)の『サド侯爵夫人』(三島由紀夫作 鈴木忠志演出 吉祥寺シアター

書籍の方は、『神なき時代の日本蘇生プラン』(宮台真司藤井聡 対談書ビジネス社)
『「自傷的自己愛」の精神分析 齋藤環著 角川新書』

いずれも、お見事。名舞台 名著である。

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