秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

ポケットの小銭

立場(肩書き)が人をつくるとかつてはいわれた。

ちょっと頼りなく、あぶなかっしく思える人材でも、それなりの要職、責任を伴う肩書きを与えると、その役分に見合うように成長していく…というものだ。

確かに、自分の青年期から中年期を振り返ると、当たっていると思う。

先輩たちは、さほど実績もないぼくのような生意気な人間をおもしろがり、責任ある役職や重要な役務に就かせた。芝居でも、映画でも、その他の仕事でも。その結果、これまで見えてないかった世界や視野、見識を与えられてきたと思う。

独立して事務所を持つとそれはさらに広がった。むろん、その役分に十全に、あるいはそれ以上に応えようと励んだ結果だ。苦しかったことの方が多く、楽できた記憶はわずかしかない。だが、それが学びを深めさせてくれた。そして、それは喜びともなっていく。

まさに立場(肩書き)がそうさせたのだ。だが、勘違いしてはいけない。

ならば、立場(肩書き)さえ与えれば、だれもがそうなれるわけではない。逆に、立場(肩書き)を与えられたことを自分の優秀さと勘違いして、驕慢に、傲慢に事を進め、大失敗をやらかす奴もいる。

部下や後輩がひどい迷惑を被ることもあれば、組織や集団、チームがガタガタになることだってある。支持や応援者を、客を失うこともある。

果たして、その違いは何なのだろう。

いうまでもない。立場(肩書き)を十全に、あるいはそれ以上に生きようとできているかどうか。まっとうに、その役分を果たせているかどうかは、自分の評価に固執しているかどうか。立場や肩書を利用して、自分の価値を実体以上に見せる虚栄心や体裁に囚われているかどうかで違ってくる。

自分への固執や我執で役分はまっとうできない。ときとして人に対して厳しく説諭することもあるだろう。耳障りなことも口にすることもあるだろう。嫌われることだってないわけではない。批判や中傷を浴びることもあるかもしれない。

だが、その本質に自分がよく思われたい、自分の評価を上げたいという邪心さえなければ、与えられた役分はまっとうできる。なぜなら、役分を果たす対象は、自分ではなく、他者にあるからだ。

ぼくの場合、観客であり、視聴者であり、イベントの参加者であり、協力してくれる人々であり、作品やイベントの向こうにいる、顔も名も知らない不特定の多くの人々だ。

自分よりも外側、より外側、より遠くにいる人たちを基準として、役分に取り組めるか、まっとうできるか。それが与えられた立場(肩書き)が人を成長させる大きな力だとぼくは信じて疑わない。

自分がよければいいのでも、自分の組織や集団が都合よくいけばいいのでもない。それは偏狭さ以外の何ものでもない。

世界基準と時代に逆行し、アメリカファーストに固執する大統領とその威を借る人たち。自分さえよければいい人の集団に組みできるのは、与えられた立場(肩書き)が国民から与えられているものだということをすっかり忘れているからだ。

国会の承認もなく、国民の税金を打ち出の小槌と勘違いし、ポケットの小銭のように、好きにつかまくる。それができるのは、立場(肩書き)を与えてはいけない、能力に欠ける人たちだからだ。