秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

責任を痛感しております

時間と記憶(空間)の問いは、ソクラテスの昔からあった。そこにギリシャ悲劇が誕生したことも当然のことだ。ぼくは演劇という窓を通して、それを学び、実感してきた。

演劇は身体を通して、時間と記憶をどう観客と共有するかの芸術だからだ。

たとえば、ソクラテスからずっと後、実存主義は、存在の証明をまるで演劇の構造物のように、時間と記憶、その誤謬に求める。

 

だから、その祖ともいえるベルグソンはフランス喜劇の笑いに夢中になったし、ハイデッカー、ヤスパースキェルケゴールを経て、サルトルに至っては戯曲まで書いている。


だが、実存主義は、時間と記憶の認識において、あまりに文学よりで、前頭葉頼りだったのだと、いまにして思う。余談だが、だからこそ、あれだけ実存主義系の学者や作家の多くが愛人を持ったのだw。自分たちの前頭葉では理解できない世界への憧憬だ。

 

サルトルの戯曲は決して演劇的とは言えない。身体性や知覚と言語など、その後、現象学が登場すると愛人に弱い、実存主義は現実把握において、未熟だと理解されるようになった。

一重に、それは、身体がそうであるように、時間と記憶がすべからくあらゆる人に同じ尺度ではなく、知覚として認識される現象も、それを表す言語もひとつではない、というあまりに身体的で、直截な現実がぼくらに明白になっていったからだ。


ベケットは、この実存主義の弱さを個の尺度の違い、誤差に求め、個の総体、人々全体が、「そうであろう」と認識する世界が、身体性の相違のように、世界理解の尺度の違い、誤差の集積によるもので、実は存在しないという、現実と不安を提示して見せた。


そう。ぼくらは、それぞれが持ち合わせている時間、その長さ、質が実は個々に違う。時間のそれらが違うということは、共有しているだろうと思い込まれている記憶もじつは、相違があり、すべてにおいて誤差がある。あって当然なのだ。


日常を維持し、継続させるために、ぼく及びぼくらは便宜的に、時間の違い、記憶の誤差について、自動可変装置のように、辻褄を合わせているに過ぎない。この自動可変装置が機能しない人、うまく動作しない人たちをぼくらは精神的な疾患や精神的、人格的障害のある者として脇に置いてるだけのことだ。


彼らの描く世界が時に、ぼくらの想像を超えて、美し過ぎるのは、平準化・均一化・無個性化していない、見たこともない別世界を目の当たりにする畏怖と感動からだろう。

一方で、ぼくらは、平然と誤差を無視し、さも多くの人々と同じ時間、記憶を生きてるという演技をすることもできる。自動可変装置が機能しない、もしくはうまく作動しないことをごまかし、日常言語レベルもしくは、それ以下でしか会話ができないために。


「善処いたします」「記憶にございません」「責任を痛感しております」云々という言葉は、言葉ではなく、もはや一つの言語だ。自己の存在を消す世界の言語。意味性も何もない無の信号だ。ただ、信号だから、発信はしている。


自分はいないという信号だ。存在しないことの証として、「責任を痛感しております」がある。


つまり、いまぼくらの国には、首相は存在していない。