秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

アヒルになる

昨日は東京大空襲のあった日。敗戦記念日が近い。

どうしてもっと早く戦争を終わることができなかったのか…それはこれまでもいろいろなところで検証され、独走状態にあった当時の軍司令部や責任ある立場の人間たちの体裁主義や精神主義、世界観の欠落した手前勝手な常識といったことが指摘されてきた。
 
世界観や広い視野のない、狭窄した手前勝手な理屈と理想が幻想を生み、同調圧力によって増幅され、それがやがて妄想に変わる。

自分たちの現実がどれほどのものか、自分たちの力がいかほどのものか、そして、自分たちは何のために、いま現在の職や立場や役責を与えられているのか…それがまったく見えないところで、戦争は起きた。

それを客観的に批評する眼も、冷静に俯瞰できる視座もないまま、つまり、理念と理論と行動原理をもたないまま、あやまった現場主義によって、人々は道をあやまった。

マスコミすらもそれに同調し、国、共同体という地域のために、率先する人間を美談にし、その美談にのることで、うまい汁をすする奴らも登場した。戦争成金。いまでいえば、被災地成金だ。

世の中、美談を語る奴ほどあやしいものはいない。単純に美談ですませる世間ほど危険なものはない。
 
昨日、港区の赤坂青山地域の内々の飲み会で、ふと話した。
 
「人は現実生活の事柄にまぎれていると、そこで一生懸命やっていれば、なにか真実に、普遍的なものにたどりつけると思い込んでいる。オレは現実社会でこれだけのことをやっている。この大変さをわからなければ、人の気持ちも世の中の本当もわからないのだ…」。いわゆる現場主義が絶対と思っている人間はそう思い、自分は修行しているのだと自慢する。

確かに。「しかし、人々に分け隔てなく、ある真実を、普遍的な意味や願いやもっといえば、未来への希望を伝え、ひっぱる力は、そこにはない。なぜなら、現場優先主義は手前勝手な理屈に人を迷い込ませるからだ。自分の行動や考え方に疑問をもてなくなる。それは、普遍や真実からは程遠い。情報もわかったような気になってしかみていない。それは真ということとは違う」
 
 
よく、アイスホッケーでアヒルになれといわれる。自分のいまもっているパットばかりに目が行くと、戦況や状況把握ができない。どこにパスするのが一番効果的かもわからない。チームのことや仲間のことを考えないやつは、自分で持ち込んで、抱き込んで、自分でゴールまでいこうとする。そして、インターセプトされる。うまくいくこともあるが、確率は次第に低くなる。攻撃が一本調子になるからだ。
 
だが、人はたまたまの成功例や一時の調子のよさがあると、その狭い現場主義に陥り、俯瞰で世界をみることをしなくなり、そこにすべての真実があると思い込む。

かつての戦争もそうやって起きたし、アヒルになれないまま、敗戦まで気づかなかった。いや気づいていても、もう後戻りができなくなっていた。

どんなときもアヒルになる。それは自分という利己から自由になるということでもあるのだ。