脳をつなぐ自由
理想や夢を語るとき、あるいは、未来のビジョンやプランを語るとき、進めるとき、そこに年齢は必要なのだろうか。
あるいは、立場や帰属しているもの、肩書きとかキャリアとか、経験とか、重要なのだろうか。
ぼくは、そういうまどろっこしいものがない方が、理想や夢、未来のビジョンやプランはいいものが生まれるし、大きいもの、自由で飛躍があるもの、それでいて、実現可能なものが生み出せる気がしている。
いろいろな立場や年齢、いろいろな職業や帰属。それらがごちゃまぜになれる器と環境があると、奇想天外、荒唐無稽なものでも、知恵や力を持ち寄ることができ、仮に壮大なものでも、現実化できる道が拓いていくと思っている。
ぼくらは幼児の頃からいろいろな学びをする。しかし、いくら学んでも、限られた分野、限られた社会、限られた世界の中だけで積み上げられても、そこには限界がある。年齢を重ねようが、専門のなにかを学んでいようが、ひとりの人間のそれがいかに優秀でも、未来を拓くのはひとりの力ではできないのだ。
ぼくらは幼児の頃からいろいろな学びをする。しかし、いくら学んでも、限られた分野、限られた社会、限られた世界の中だけで積み上げられても、そこには限界がある。年齢を重ねようが、専門のなにかを学んでいようが、ひとりの人間のそれがいかに優秀でも、未来を拓くのはひとりの力ではできないのだ。
一芸に秀でた人の力は尊敬に値するし、貴重なものだ。餅は餅屋という言葉があるように、専門の経験と技術を持つ人たちの力はすごい。
だか、ぼくらの社会、世界はもう、その枠の中だけで完結でき、何事かを達成するのはとても困難な時代を迎えている。
政治が政治家という専門家によって、まったく信頼を失っているように。マスコミがマスコミ人、ジャーナリスト、評論家といった専門家によって、不信感を与えているように。
いまやぼくらの脳は、その眠っている脳の可能性を広げる方向ではなく、使える脳の熟練に励み過ぎ、ゆとりがない。そこを埋めるのは、違う立場、異なる世界を持つ別の脳だ。
昨夜、後輩ながらいろいろとぼくの活動を応援してくれ、お世話になっている横尾くんの主催する勉強会に参加して、ぼくはそんなことを考えていた。
いまやぼくらの脳は、その眠っている脳の可能性を広げる方向ではなく、使える脳の熟練に励み過ぎ、ゆとりがない。そこを埋めるのは、違う立場、異なる世界を持つ別の脳だ。
昨夜、後輩ながらいろいろとぼくの活動を応援してくれ、お世話になっている横尾くんの主催する勉強会に参加して、ぼくはそんなことを考えていた。
彼らの姿は、とても謙虚で、それでいて自分の脳の熟練した部分をどう他の人のそれとつなごうかとしている。そこには、ありきたりなようで、ありきたりにならない、おっとりした、これまでにないしなやかさがある。
ぼくら世代やその前後の世代、旧世代を手本にしよとしている連中より、はるかに彼らは思考においても、つながり方においても、発想においても、ときに稚拙ささえ、魅力にして、あくまで自由だ。