秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

センス

会話としての外国語を習得することと文学や評論を外国語で学ぶことには大きな違いがある。

文学や評論を外国語で学ぶのは、外国語を習得することが究極の目標ではない。外国語の習得がなければ、海外の文学や評論、その他を理解することは、もちろんできないけれど、重要なのは、単に意味がわかるということではなく、意味の向こうにある世界を知り、理解することだ。

すっかり英文学から遠くなったいまのぼくには、学生時代読んでいた英文学書は、いまでは即座に読めなくなってしまったが、あの頃知った、書籍に描かれた世界感、論理や志向はいまでもどこかに根付いている。


人の日本語の文章を読んでいて、「ああ、この人はシェークスピアを原書で読んだことがる人だな…」とか、「聖書を原書で読んでいるな」と気づかされることがたまにある。あるいは、この人の文章は、英訳しやすい文体だなと気づくことがある。

外国語の文章を学ぶということは、母国語の修練になる。日本語にするときに、言葉の海から、その世界感にもっともふさわしい日本語、文体、語句、文章を選択する必要があるからだ。文章力のない人の翻訳文はとても読みずらい。意味はあってるのに、理解するのに時間がかかるのだ。

外国語で描いている世界を本当には理解してないからだとぼくは思っている。原書に当たった方が腑に落ちるということがままある。

外国語の話しをしたのは、ぼくらの社会が「意味」だけしかわらない時代を生きているのではないかという気がしているからだ。いや、正確には、即物的に、「意味」さえわかればいいという世界を生きているのではないかと直感するからだ。

物事の意味はわかっても、それが何を語っているのか、何を示唆しているのか、何を示しているのかの理解へ頭が働かない。そして、表層的な意味の解釈をめぐる、不毛で生産性のない議論ばかりをしているのではないか…。そんな気がしているからだ。

世界や社会の姿、その本質について考えず、いまこうなっているという現象だけを知る事で、意味を理解したと身勝手な解釈をし、それらが示す本当の意味を理解しようとはしていない。そのセンスが失われてきている。

それは物事の真実を見極めることができなくなってきているということだ。それが、これほど社会規範に反する政権、中央官僚機構、行政府、司法の横暴を許している。

かつてなら、ダサダサだったものが、センスのある顔をして堂々と社会を世界を意味の理解もなく、闊歩している。