パワースーツの中身
肩書や地位が人をつくる…という言葉がある。
ぼくは肩書や地位といった人間の属性にほとんど興味は持たないし、社会的な肩書や地位がその人の人格を決して表象するものではないと考えている人間だ。
人の価値や魅力といったものは、肩書や社会的地位をはずしたところにあると若い頃から思っていたし、現実に、ぼくが社会に出て、出会った魅力ある人というのは、素晴らしい肩書や地位があっても、それに頼っていない人たちばかりだった。
素手で勝負している人たちだ。
逆に、肩書や地位はなくとも、人間味あふれる、素晴らしい人だな、おもしろい人だなと興味をそそられる人は少なくない。
だから、肩書や地位が人をつくる…というのは、ただ、肩書や地位あれば、人が育つといっているのではないと思う。
それがなくても、魅力ある生き方のできる人が、肩書、地位という責任を真摯に全うしようと努力し、研鑽し、その肩書や地位に恥じない自分になろうと謙虚に奮闘するところに、成長があるということなのだ。
確かに、自分もだけれど、肩書や地位をえて、それまで見えていないかった世界、出会えなかった人たちと出会え、それまで以上の学びや経験が得られてきた。肩書や地位を得ていなければ、きっとそれはできなかったことだと思うし、責任を持つ立場に就くということは人を大きくさせるとも思う。
確かに、自分もだけれど、肩書や地位をえて、それまで見えていないかった世界、出会えなかった人たちと出会え、それまで以上の学びや経験が得られてきた。肩書や地位を得ていなければ、きっとそれはできなかったことだと思うし、責任を持つ立場に就くということは人を大きくさせるとも思う。
しかし、同時に、肩書や地位に甘んじ、傲慢、驕慢、横柄になり、肩書きや地位に見合おうとごまかしをする、人を見下すような人間になっていては、それはできない。
せっかく広がった視野の中に、出会えた人の中に、より自分を磨き、成長させてくれる世界とも、人とも巡り合えず、学びもおかしな学びしかできなくなる。
肩書きや地位を利用する邪さや狡さ、醜さを身に付けて、そこに胡坐をかき、何でも自分の思うようになると等身大以上に自分を取り違えてしまう。
ぼくは、肩書きや地位というのは、ヒーローが身に付けるパワースーツのようなものだと思うんだよ。
肩書や地位、権威や権力を持つほどに、つまりパワーを発揮できるからこそ、パワースーツの使い方にそれなりの警戒と注意を怠らなかったし、それに見合う自分であるかどうかの問いを持ち続けていたからではないだろうか。
モラルハザードという言葉が使われるようになって久しい。それと同時に、政治や国政、行政への不信感は増大し、これまで尊敬をえていた政治家、政党、医師、法曹関係者、政治家、マスコミといったものへの信頼は落ち続けている。
それはひとえに、社会の枠組みを維持する基本にあるパワースーツの中身が軽薄なものに成り果てていることを多くの人が見抜いているからだ。
パワースーツを当てにしない、生き方、国のあり方、教育のあり方、経済のあり方…それを真剣に考える時代の転換点にぼくらはいるのかもしれない。