秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

ようなもの、なるもの

30年…それは数字や文字にするとずいぶん長い歳月のような気がする。

だが、こうしてその歳月を生きてしまうと、なんとその短いことか、速いことか…光陰矢の如しというたとえが、年齢を重ねるうちに実感として染みわたる。

ひとつの仕事、一つの会社。そういう時代はずいぶん前に終わっているけれど、依然として、それを続ける人も決して少なくはない。

ひとつの職業、ひとつの組織や集団、地域にずっといると、人は相応に歳をとる。年齢もだが、そこでの立場や経験。後に続く年下世代とのかかわり方。そこでの自分の立ち居振る舞いを考えると、おのずとそれにふさわしい老け方をするものだ。

だが、ぼくのように、本質的には変わってはいないが、5年から10年サイクルで、生業とするもの、主として向き合うものの対象や形が変わり、世代に関係なく仕事や活動をする人間は、自分を含め、年上でも下でも年齢への自覚や関心が薄い。

その分、模範的な老け方というのができない。

目まぐるしく時間を生きている分、いい意味でもそうではない意味でも、老け方が下手だと思う。老成という言葉はぼくには遠い。

忙しい谷間を縫って、2週間ほど前、母校に足を運んだ。

母校演劇博物館の企画イベントで英文学をやりながら、演劇をやっていた頃とゆかりのある催しには、顔を出すようにしているが、今回は特にいろいろな思いがあって参加した。

「劇的なるものをめぐって」舞台記録映画上映と「鈴木忠志×渡辺保トークセッション」。

大学に通うようになって、鈴木忠志構成・演出「夜と時計」を観たときの感動はいまも鮮烈に残っている。「劇的なるもの…」初演上演の頃、ぼくはまだ民芸や文学座、東京小劇場の芝居が最高だと思う演劇高校生だった。いわゆるアングラ(小劇場)はなんとなくしか知らず、それゆえに、受け入れられなかった。

それを180度、覆したのが鈴木忠志氏で、ぼくは以後、鈴木氏の強い影響を受けた。そして、その芝居をもっとも評価したのが歌舞伎評論家で演劇評論家渡辺保先生だった。

富山に本拠地を移した鈴木氏率いる早稲田小劇場の会員になり、こけら落とし公演の打ち上げの席にも、能楽の観世寿夫、劇作家の清水邦夫ら著名演劇人と一緒に、渡辺先生もいらした。

それから数年後、ぼくは劇団を解散し、映像の制作会社と俳優養成所の講師をしながら、東宝現代劇に通うようになった。そこには演劇室企画室長というサラリーマンでもあった渡辺先生がいらしたからだ。

すでにぼくは劇団もやり、公演活動もやっていて、小劇場の著名作家たち数人とも交流があった。新劇やテアトロのグラビアで公演写真を比較的大きく扱ってもらえてはいたが、ぼくは交流のあった彼らと違い、賞とも、評論とも縁のない人間だった。

帝劇や芸術座となれば、1,2年は修行期間。その程度にしか考えていなかったぼくに、わずか数ヶ月で仕事の声をかけてくださったのが渡辺先生だった。

尊敬する渡辺先生の言葉は、本当に胸に染みた。上京してから10年。ひたすら演劇を知ろうとあらゆる分野の書籍と英文学に格闘した。ただただ、舞台をやりたいその一心で挑んだ10年を先生が身に余る言葉で評価してくださった。

だが、ぼくは、先生が差し伸べてくださったチャンスに素直に手を伸ばすことができなかった…。そして、5年。ぼくは演劇を封印し、映像に没頭した。

ぼくは独立後、仕事のご依頼で一度だけ、電話でご連絡をとらせていただいただだけで、どこかで先生をみかけても、声すらおかけすことができず、きっと先生の記憶にすら残ってないだろうと思い込んでいた。

東宝9期でお世話になった秀嶋です」。
公演が終わって、先生にお会いした。直接お会いしてお声をおかけしたのは、30年ぶりだった。
「おう。いま、なにやってるの?」
「いま、映画をやっています」
「映画監督!・・・」
「先生の近くに住んでいまして、よくジョギングでお見かけするのですが」
そういうと先生は名刺を改めてご覧になって
「あ…」と驚かれた。
「すみません。罪悪感で長いことお声をおかけできませんでした」
すると先生は「ま、いいじゃないか…」といった様子を一瞬みせられて、それから、大きく笑われた。

先生にお声をかけるのに、30年かかった。忘れられているだろうと思っていたぼくのことを記憶していただけていたことは感動だった。

先生のお話や講演は、少しも老いを感じさせないものだったが、先生がお元気なうちに、一作でもほめていただける作品をつくりたいと改めて感じた。

ほめていただるのが至難なことは、若い頃、先生の評論を初めて読んだときにわかっている。先生の文章は、三島由紀夫にも劣らない、美しい文体なのだ。

自分の描きたいものだけを描く世界からぼくは決して遠ざかってはいないけれど、演劇の持つ時間の飛翔や飛躍を表現の形にする作品は書いていない。

その時間をつくりたい。そう思うぼくの心が、30年を一瞬にして、先生との再会の場をつくってくれたような気がしている。

ぼくの根底には、いつも演劇なるもの、ようなもの、があるのだ。