モノローグとダイアローグ
以前、三島由紀夫の文学は二次元の世界なんだって話をきみにしたことがあったよね。
三島の小説に登場する人物が立体性がないこと、まるで浄瑠璃のように、あえて二次元に封印することで、それが逆に三島文学の美を生んでいるって話さ。
三島が戯曲を得意としたのも、これに誘因している。能楽や近松作品、シェークスピアもだけれど、古今の名作戯曲といわれるものには、あえて劇世界を二次元の世界に封じ込めて、高い演劇性を生み出している舞台作品はじつは少なくないのさ。
三島が戯曲を得意としたのも、これに誘因している。能楽や近松作品、シェークスピアもだけれど、古今の名作戯曲といわれるものには、あえて劇世界を二次元の世界に封じ込めて、高い演劇性を生み出している舞台作品はじつは少なくないのさ。
これらの戯曲の名作の言葉は、決してダイアローグ(対話)形式じゃない。対話の形式をとっているようで、本来、韻文詩である戯曲は、対話よりもモノローグ(独白)を主体としている。
対話は、じつは演劇には不向きだ。ギリシャ悲劇に始まり、能楽でも、そこにあるのはダイアローグではなく、ほぼモノローグだ。使われるとしても、ダイアローグではなく、舞台転換や展開のための会話(掛け合い)だ。
独白と独白の重奏によって、対話を生み出すという手法は、内面の表象を映画のように、心象風景として映像化できない、できたとしても致命的ともいえる余剰な意味性を生んでしまう演劇では宿命的ともいえる。しかし、その制約が逆に、戯曲ならではの<独白による重奏>という言葉の音楽を作り出す動機になっている。
かみ合っているようで、かみ合っていない。それぞれが別の旋律をかなでながら、その異質性、相違が異化され、相対化され、音楽のようにして、観ている人々の心に共有されていく…
物語性を越えたそれらが、作品にあるから人々にとってはディスコード(不協和音)のように思える言葉のつらなりでありながら、それがより物語を理解させ、物語の心象を深く心に突き刺す。
実生活において、ぼくらは他人と会話や対話をしている気になっている。しかし、じつは、それぞれの脳が理解したその場の脈絡、目的、意図によって、自分の言葉を語っているに過ぎない。相手の脳もそれを共有しているはずだ…という幻想のもとに。
実生活において、ぼくらは他人と会話や対話をしている気になっている。しかし、じつは、それぞれの脳が理解したその場の脈絡、目的、意図によって、自分の言葉を語っているに過ぎない。相手の脳もそれを共有しているはずだ…という幻想のもとに。
だからこそ、誤解や誤認、行き違い、すれ違い、その果ての対立や祖語、諍いが生まれるのだ。そもそもの前提を誤っているから、会話が成立しないこと、対話が成り立たないことのいらだちを人々は同時に共有しなくてはいけない。
それは、多くの人にとって対話の拒絶に見えはしなかっただろうか。見えてはいないだろうか。
自分の正当性ばかりを主張し、数字のマジックを使い、あたかも過ちも失敗もなにひとつないかのように語る、成果ばかりを連呼する言葉は、ご都合主義のモノローグだ。自分たちの脳が描く理解や幻想が、他とも共有されているはずだとする身勝手な独白ばかりだ。
自分の正当性ばかりを主張し、数字のマジックを使い、あたかも過ちも失敗もなにひとつないかのように語る、成果ばかりを連呼する言葉は、ご都合主義のモノローグだ。自分たちの脳が描く理解や幻想が、他とも共有されているはずだとする身勝手な独白ばかりだ。
そこに国民や生活者とのダイヤローグ(対話)へ開く窓口はひとつもない。
二次元の世界に封じ込めて美を生み出すのは、演劇の世界のこと。現実社会にあふれる多様な意味性と多様な意志や実状に、モノローグは有効ではない。政治はきれいごとではない。美ではない。圧倒的な現実と泥まみれになるものだ。
二次元の世界に封じ込めて美を生み出すのは、演劇の世界のこと。現実社会にあふれる多様な意味性と多様な意志や実状に、モノローグは有効ではない。政治はきれいごとではない。美ではない。圧倒的な現実と泥まみれになるものだ。