秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

クラップの最後のテープ

Samuel Beckettは、アイルランドの詩人、小説家、劇作家、文芸評論家。
 
ミュージカル“Cats”で一般に知られる詩人、劇作家のYeatsや難解な小説“Finnegance Wack”などの小説で知られる、詩人、作家のJoyceなどと同じアイリッシュ文学がその出自だ。
 
アイリッシュの独特の音楽や民謡を言葉と文章表現に生かし、詩と小説、演劇に革命的な新世界を広げた作家のひとり。
 
その作品の大半を英語ではなく、仏語で書き、その人生の大半をフランス、パリで過ごし、終えた。

言葉の世界での実験的な挑戦をする上で、仏語でなければ、自分の作品の的確な表現ができなかったとベケットはいっている。

ご存じのとおり、アイルランドは、かつて、スコットランドイングランドに主権を奪われ、支配された隷属の国だった。牧畜と農業、水産業といった一次産業の国で、その消費地であるイギリスはその豊富な食料をむさぼるようにアイルランドを併合した。
よく知られるのは、初夜権。新婚の女性が婚姻する男性と夜を共にする前に、領主や地頭が初夜の権利を持つという理不尽なものだ。民族浄化の意図もあり、女性に純粋なアイリッシュの血縁を残させないという意図もあった。

年貢として納める食料のために、飢饉に幾度も見舞われ、併合されてからは貧しい生活を強いられ、移民による出稼ぎでしか生活を支えられなくなる。
 
それを背景に反イギリスのアイルランドカトリック教徒の中から生まれた、アイルランド民族主義運動がイギリスのプロテスタンティズムと激烈な闘争を展開する。
 
背景には、イギリスの介入で統治した自治政府カトリック教徒や地元アイリッシュへの差別を助長していることも大きい。
 
これが、アメリカの公民権運動と連動して活発化する、北アイルランド紛争だ。

いわゆる、IRA(アイルランド共和軍)を中心に起きた独立闘争。いま暫定的に収束しているようにみえるが、問題は単に宗教的対立を越えて、自治権をどこが握るのかという複雑なせめぎ合いに変わっている。

イギリスの介入と差別に反発する人々との確執は依然根強く、いま現在もイギリスが抱える最大の政治的課題といってもいい。

これらは、第59回カンヌ映画祭パルムドール賞を受賞した、名作『麦の穂をゆらす風』という映画にもなっている。

ベケットは、ある意味、この確執と現実の世界から距離を置く道を選んだ。それでいながら、演劇や小説の世界において、人々の存在の喪失と不在を見事に描く。

私はベケットが仏語を選んだのは、言語の音の問題と表現の問題もあっただろうが、やはり、英語を表現者として使うことへの強い抵抗もあったのではないかと考えている。アイルランドにも、イギリスにも、どこにも帰属しない言語を必要としたのではないかと思うからだ。
 
先週末、このベケットベケットらしい戯曲のひとつ、『クラップの最後のテープ』のミュージカル版の日本初公演を観た。原作通りという意図で、仏語での上演。オペラ、現代音楽の一線で活躍する、東京芸大音楽学部出身者による、見事な舞台だった。

本来、ベケットには、笑いをとる場面があるのだが、どうしても日本人にはフランス的ユーモア、ジョークが届かない。とはいえ、やはり、名作は時間も、年齢も越えて、迫ってくる。若い演劇人や舞台を目指す人は、こうした作品を学ばなくなった。
 
わずか、1時間程度の舞台。だが、やはり、ここにも、「これでいいのか?」という問いがある。ベケットの作品をひとつとりあげるだけでも、アイルランドを通して、世界が、知識の海が見えてくる。