秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

バタバタの要因

社会システムの基本となっているのは、当然ながら法や制度。それは一見普遍的なもののように思われがちだ。
 
それは、法や制度が社会通念や倫理、道徳といったものを担保にしてつくられている…という基本認識が多くの人に合意されていることで成立している。
 
だが、決して、法や制度、それらがつくる社会システムというのは、普遍的でもなければ、現実を掌握しているわけでもない。社会通念、倫理、道徳といったものも決して普遍ではない。
 
ある時代、当然とされた社会通念や倫理、道徳が、ある時代のある一点で一変するということが起きる。つまり、現実をすみずみまでコントロールし、法や制度がつくれらた本意が徹底して現実に関与しているわけではないし、そうした力は法や制度、社会システムそのものにはない。
 
なぜか。簡単なことだ。ある時代の事情や情勢、人々の生活の不具合の露見、国際的な政治経済、安全保障の推移といったものとの整合性や安全性の確保、対応策、対抗策としてしか法や制度はつくられていないからだ。
 
つまり、現実生活の課題に対して、それを克服しよう、解決しようという願いと理想、理念の中でしかつくられない。逆をいえば、それがない状況が現実にあり、それまでの法や制度、社会システムでは対応できないからこそ、生まれたものに過ぎないからだ。
 
それがからくも成立するのは、だから、人々の中で、そうして誕生した法や制度、社会システム、そのリソースとなっている社会通念や倫理、道徳を信じ、人々との合意によって現実にしようという意志があってのことだ。つまり、国、社会、地域といった枠組の基本をつくっているのは、人々のこうした幻想によっている。
 
従って、いかに法や制度が完備されている近代国家においても、常に、人々を襲う理不尽さや不条理さはつきまとう。
 
これを変えていくには、法や制度、システムをつくり、ハンドリングする側の能力を高め、かつ、生活者の側が法や制度の理想とする幻想を現実に落とし込む、生活者意識、もっといえば、公民意識が徹底しなくてはいけない。

だが、当然ながら、現実はそこまで政策実行能力も、生活者の民度も高まっていない。そこに、民衆のいら立ちや組織人でありながら、組織へのあり方への疑問や不満が生まれることになる。
 
現実生活をしのぐ…ということを基本とする生活者にとって、出現した課題に不満や不平をいうことはできても、それを政治的に制度的に、あるいは、権利闘争によって勝ち取っていくということがなかなかできない。
 
結果、法や制度、システムのもろさをついて、社会批判を受けても仕方のないようなことが、平然とまかり通ることが許されていく。
 
3月撮影のキャスティングの手配でこの数日、頭を悩ませられている。キャスティングでこうした経験はいままで一度もなかった。それも、これまでと違う、いま述べた社会の現実が背景にあってのことだ。
 
独占禁止法や下請法違法同然のことをやっている「教育」に関連する企業がおり、そのとばっちりで、これまでつかえた俳優事務所が使えなくなった。そのため、オーディション前にバタバタすることになってしまった。
 
よく人は、制度や政治、法を生活とは遠いものと考える。憲法の意味や価値を普段の生活では実感できない。
 
だが、自分の生活の、あるいは仕事の端々に、実はこうした法や制度、社会システムとそれがもつ本来的な脆さが常にある。その現実を実感することによって、初めて、制度をつくる側、そして、制度やシステムを現実化する側、それを享受する側に
なにが必要なのかが見えてくる。