秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

きれいごとの増産

教育というのは、そもそも不遜なものだ。そういったのは、ルソーだった。

子どもを大人たちが求める人間に意図して育てる。それが教育の本質に過ぎない。ルソーはそう言いたかったのだ。

大人たちのつくった、家庭、地域、社会の規範や倫理、道徳に従うのが当然だという前提で子どもを育てる。あるいは、大人たちが作り上げた、制度や社会的な仕組み、慣例、慣習に従順な人間にさせるために子どもを育てる。

果たして、それが教育というものだろうか…。

ルソーが、教育は、そもそも不遜なものだという結論に至った始まりに、その問いがあった。

ぼくは、教育にかかわる場や教育に携わる人たちによく言うことだけれど…そもそも、教育するという考えや姿勢に問題がある。

ぼくらが教育でできることは、種を撒くくらいのことでしかない。

ぼくらは、子どもたちに何かの種を撒くことはできるけれど、その種を育てるか育てないか、その種を生かすか生かさないかは子どもたち自身が決めることで大人が,
ああしろ、こうしろと指示することでも、決めることでもない。

あくまで、主役は彼らであって、仮に、どこかでぼくらがよくないと思う種を彼らがもらったとしても、あるいは、ぼくらが危ういと思う種を撒かれたとしても、それがよくないか、危ういか、それを判断するのも彼ら自身にゆだねられていることだ。

そうしなければ、子ども自身、自ら考え、判断し、選択し、場合によって過ちをやり、だが、それによってなにかを学ぶという体験的な学習もできなければ、試行錯誤によって自分なりの結論や自分なりの考え方をみつけることも、みつけたことによる自信も得られない。

つまり、自尊感情が育たない。場合によって、傷つくこともあるかもしれない。しかし、それに最初からふれさせない、出逢わせない、見せないというのは、本当の意味で教育とはいえない。

結果的に、そうした大人の浅はかな介入は、子どもから耐性や免疫力を奪い、判断力、選択力、課題解決能力、創造力、対人力、つまり、生きる力そのものを脆弱にさせる。

まるで腫物にでもさわるように、子どもの目や口、耳を覆い、安全・安心・清潔・健全なものと大人が判断するものにふれさせたところで、逆に、歪でひ弱な人間を増産するだけのことだ。

それは結果的に、大人たちが守りたい、継続したいと思い込んでいる社会を破たんに導く道でしかない。

今日、ニュースで相模原市の障害者施設で起きた殺傷事件に関する報道があった。NHK相模原市の学校での調査で、人権教育に力をいれた取り組みがされるようになったという報道だが、事件についての説明や経緯についてはほとんどされてないと伝えていた。

理由は、子どもたちが生々しい現実を知って傷つくからだというものだ。

お決まりの人権教育でよしとする、この国の人権教育の希薄さ、本質のなさを改めて感じさせられた。現実を見させない。本質を教えない。きれい事だけ並べて、それが人権教育だと無駄な時間と経費を費やしている体質はひとつも変わっていない。

そんなことで今回のような事件の抑止などできるはずがない。

仲良くしましょうね。いじめはやめましょうね。障害のある人をいたわりましょうね。そんなきれい事をお題目のように唱えながら、この国の教育は、本質に目を背け、動機なき殺傷事件、高齢者や女性、子どもへの虐待、いじめや差別を増産し続けている。