秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

傷のない腕に巻かれた包帯

ぼくは、もう10年ほど前から、ある評論本の企画を持っている。内容を検討しているときに、あの震災が起きた。

そして、その評論本の中で、描こうとしていたことの多く、ぼくらが取り戻さなくてはいけない課題をあからさまに震災が突き付けてくれた…と実感した。

映画作品をリリースして、試写会や上映会の席でよく、どうしてこうした作品をつくったのかといった質問をされる。果ては、どうして映画を始めたのか…

震災以後の活動の中では、事あるごとに、どうしてこうした取り組みを始めたのかとも聞かれる。なぜ、福島なのかとも…。

答えは簡単なのだが、それを理解してもらうのは容易ではない。なぜなら、問いかける人たちに、自分たちのいるいま、日常への、社会への、世界への疑い、自らへの問いが希薄だからだ。

果たして、いまの自分、自分のいる地域、社会、国、世界のあり方はこれでいいのだろうか…。その問いを持たない人、持てない人に、簡単な答えは返って、理解されないし、手前勝手な解釈をされかねない。

人は己の文脈でしか、他者を理解できない。できるのだが、しようとしない。自分の文脈と異なる発想や考え、行動は、奇異に映るし、不明性の闇に落ちる。それがいやなので、不安なので、きっとこうだろうという自分の理解できる文脈に引き付けて、落ちを付け、排除したがる。

あるいは、理解できないまま、理解を示そうとする(笑)。

それはとりもなおさず、いまのあり方、いまの制度やシステム、つまりは、既存の枠組みとその価値体系に縛られて、問いを持たず、次を生み出そう、創造しようとしていないからだ。

7年前、この国が機能不全に陥った事実も、原子力が人に制御できるものではない痛烈な現実も、これまでの既得権とそれを維持する体系や制度、システムを手放したくないという人々やその恩恵にしがみつき、すり寄る人々の自己保身のために、記憶、記録として封印されようとしている。

まことしやかに語られる多くのウソと虚偽は、傷のない腕に巻かれた包帯のように、人々を欺き、記憶や記録ではなく、いまの課題、これからの、未来への宿題なのだという矛先をかわし、すり抜けている。

この震災から7年という時期に、まったく変わっていないこの国の政治の闇や社会の歪みを指摘するような公文書問題が湧き出ているのは偶然ではない。

だって、ぼくらはあのとき、国家の力がどれほど現実に無力で、意気揚々とした先進国の経済がいかに脆く、弱いものかを知ったはずだ。

国ではなく、行政ではなく、市民自らが包帯のウソを見破り、厳しく問う力を持たない限り、自らを救う道はない。