秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

無知であることは

昨年の大津のいじめ問題から、いまやっといじめの実態と教育現場の抱えていた課題が明らかになり、そのための対応が始まっている。以前から警鐘を鳴らし、そのための処方箋も盛り込んだ、いじめ作品もつくってきたオレにいわせれば、実に遅すぎる。やっとかよ…という印象しかない。
 
今年に入ってからは、大阪の高校に端を発して、部活動における体罰問題が再熱した。再熱したというのは、かつて戸塚ヨットスクールにおける体罰訓練が大きな社会問題になったことがあるからだ。
 
そして、今日は、全柔連の女子柔道の指導で、体罰パワハラが行われ、十分な処分や対応されていなかったということから、JOCに女子柔道選手団が直訴するという事案が発覚した。

人々は気づいていない。この国のいろいろな社会の現場で、いじめや体罰は決して珍しいものではない。実際に身体的な暴力をふるうということがなくとも、精神的な懲罰として、いじめ、パワハラやセクハラ、いわゆるモラルハラスメントといわれるものが恒常化している。

ことさらに、報道するマスコミも、常にスケープゴートをつくり続けてきた。オレにいわせれば、同罪だ。
 
学校、職場、地域社会でうつ病が珍しいものではなくなり、自死者数も大きく減少することがないという背景には、少なからず、社会が抱えている精神的な懲罰としてのいじめ、排除、決めつけによる色分けを当然とする、こうした社会全体のあり方そのものがかかわっている。
 
いつもいうが、学校、教室におけるいじめは、子どもたちが大人社会の姿をそのまま投影しているに過ぎないのだ。責めるべきは、子どもたちではなく、そうしたことを当然としている大人社会のあり方。競争原理優先の企業内や組織内、地域内で排除や無視がある現状で、子どもがそれを真似ないわけはない。

しかも、問題なのは、それだけではない。こうしたことがマスコミや人々の話題として日常化すると、今度は異常ともいえる過敏な反応がいたるところで生まれることだ。

問題の本質を議論するのを忘れ、あれはいじめだ、これは体罰だと現象だけを騒ぎ立て、極端な処分や排除、切り捨てを行うようになる。名指しされたり、人々から指差しされたら、その瞬間、言い分も、理由も、事情もすべて一括りにされ、すべては悪だとされる。すべて悪だと名指ししている連中の中に、それを容認し、あるいは黙認し、促進していた奴らだっているのだ。

そうした中で、根本的な解決策や改善策は見送られ、だれかを悪者にし、責任を押し付けて、それを生んでいる組織の構造や社会のあり方を本質から見直そうとしない。教育勅語や修身を復活させようという無教養な連中の能書きも、これと同じこと。

圧力で蓋をするというのは、いじめや体罰の本質と何ら変わらない。だが、その変わらないことがわかっていないから、きちとした前向きの議論と制度やシステムそのものをどう変えるか、どう変えるのがみなにとってよきことなのか…という議論が生まれない。

基本にあるのは、コミュニケーション力の脆弱化だ。

現象だけにとらわれない、俯瞰した物のとらえ方。決めつけや思い込みを疑う冷静さ。悪とされるものの中にもある事情や背景を丹念に検証する論理性。ひとつのケースだけで判断せず、一律に裁断するのではなく、個々の事案の中身を吟味する分析力…そうしたものは、すべて、コミュニケーションスキルによっている。

同時に、難しいことではあるが、被害者の側にも、もっと開かれたコミュニケ―ションの場とスキルがなくてはならない。

これまで、いじめ、DV、パワハラ、セクハラといった取材をしてきて、被害者の側がそれを乗り越えているのは、これまでとは違う、情報を得たり、支援団体のアドバイスや人と出会って、世界が広がってからだった。

いままで自分自身が縛られていた世界…そこから踏み出したときに、理不尽さの理解に目覚めたという人が多い。これも、コミュニケーションスキルの向上が生んでいる。
 
日常の生活を卒なく過ごすのには、カンバセ―ションだけあればいい。だが、何か自分自身が問題に遭遇したとき、それを助けるのは、学習と学習によってえらえるコミュニケ―ション能力の向上。

無知であることは罪だ。無知さが人を傷つける。だが、同時に、無知であることは、自分自身の人権と生きる誇りを見失わせる。